「伝説巨神イデオン発動編」
あけましておめでとうございます。
今年は巳年。
蛇が脱皮を繰り返して成長していく様を見て、先祖の方々は色々と思ったのでしょう。それが様々な言い伝えや言われとなっていますが、そういうことはとても大事な知恵。バカになどできるわけがありません。
今までの古いものを脱ぎ捨てて新しいものに変わるというのは、とても刺激的ですし、生まれ変わる、生き返る、甦る、などなど、良い意味しか持ち得ないところもまた縁起物として蛇が重宝がられたりもしますが、一方ではその姿ゆえに忌み嫌われたり、あるいはよくないものの象徴とされていたりもしますよね。評価が良い悪いのどちらかにブレることがないというのが蛇の特徴なのでしょう。
だからこそ刷新感があるのだと思います。
YouTubeで「伝説巨神イデオン接触編・発動編」が配信されていました。
衝撃を受けました。
正月にやるのか!
と。
このブログでも言及していると思うのですが、僕は「伝説巨神イデオン発動編」が数多あるアニメ作品の中で最高傑作だと確信しています。今もそうです。この映画以降、映画が観れなくなってしまった時期があるくらいに衝撃を受けました。富野監督の説教臭さが露骨になる前の作品ですが、それゆえに台詞回しに一切の無駄がないと感じます。そうあるべくしてそうある。過不足が一切なくどのシーンも最高だと今でも思います。特にクライマックスとなる最終兵器登場のシーンでは「さらば宇宙戦艦ヤマトの超巨大戦艦出現シーン」以上の凄さがありました。あの時のなんとも言えない気持ちは今でもはっきりと覚えています。言葉にできないものってあるんだなぁという衝撃。絶望というものを超えてしまった衝撃。
そして大団円となるのですが、そのシーンは当時の世相上、どうしてもヌードが話題になってしまうのは仕方ないとして、それを除いても、というより、魂の表現として「ヌード」以外に的確に表現できる方法などないと今でも思います。魂の触れ合いとしてのシーンなので、あれ以上のものは作れない。富野監督は最高のシーンを作り上げてしまったのです。行き着くところまで行き、やれることを全てやり切ってしまったのだと僕は思います。あそこまでやってしまったにも関わらず、なぜか「新しい何か」を観てしまった気分。革命とかいう陳腐な言葉では表現できない世界。
一度全部をぶち壊し、そして再生する。
だからこそ、僕もそれ以降、映画を観る機会が大幅に減ってしまいました。もうこの作品で全部表現し尽くされちゃったじゃないかという思いはなかなか消えませんでした。
さて、エバンゲリオンはイデオンへのオマージュが半端ないらしいのですが、僕は全く観ていません。そして、逆説的ではあるのですが、観なくてよかったなぁとも思っています。というのも、シン仮面ライダー、シンウルトラマンを観たからです。
こういう感じなんだと思って僕はシンシリーズを観ました。確かに面白いかどうかと聞かれたら面白かったと答えます。感動的なシーンだってありました。けれども、衝撃は受けませんでした。誤解しないでほしいのですが、批判しているのではないのです。
監督の作風が違うのは当たり前で、だからこそ多くの作品があるのです。そして庵野監督は富野監督にはなれない。いくら尊敬しようが衝撃を受けようがオマージュしようが、そもそも作風が違うのです。庵野監督には「そこまで言いたいこと」が実はないんじゃないかと思います。いや、こう書くと誤解されそうですが、庵野監督は「特撮が好き」なのです。そして「自分の影響された作品を自分の解釈で再構築したい」という情熱はあれど「それ以外の、オリジナル作品を作ってまで訴えかけたいものがない」のではないかと思えるのです。常に「何かに後押しされないと」何もできないのではないかと思えるのです。
富野監督はそれとは真逆の人です。トリトンから始まって、ザンボット3、ファーストガンダム、イデオンを見れば分かります。それ以降の作品は出涸らしというか、説教くささがどんどんひどくなってしまうのですが、それでも「とにかく表現したかった」という情熱がどの作品からもみじみ出ています。
その気持ち(あるいは思い)が見事に結実したのが「伝説巨神イデオン接触編・発動編」ではないでしょうか。
つまり、富野監督は0から1を作った人なのです。
庵野監督は1を元にしてあれこれ作った人。応用は無数に効くし、だからこそ重宝がられたりもします。良い悪いではなく、作品というものはこうして作られていくのだと思います。それがいくところまで行った後に、また富野監督のような人が現れるはずです。
昔の人は蛇をどう見ていたのでしょう。脱皮を繰り返していく姿をどう見ていたのでしょう?
新しいものが誕生するのか、
それとも焼き直しになるのか、
どんな一年になるのでしょうか?とても楽しみです。
