考えすぎ、悩みすぎ、いい人になろうとしすぎ

あまりTwitter(失礼、今はxと言うんでしたね)をしません。というかほとんどしません。
ヤフーニュースは割と読みますが、コメントはあまり見ません。
理由は簡単で、無駄に考えたくないし、無駄に悩みたくないからです。
本当によくわからないのは、なんか多くの人は本当に無駄に考えすぎで無駄に悩みすぎじゃないかってことで、何をそんなに考えたり悩んでいるのかが全くわからないのです。
なんでそうなんだろう?
本気でそう思うのです。
僕はホームズのこの言葉が大好き。
不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる
When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.
気取ってる?じゃあもっと簡単に
下手な考え、休むに似たり
日本の諺は素晴らしいですね。実はこれには更なる例えがあって、
無能な働き者
なんて言い方もあります。
いずれにしても、無駄なことまで延々と考えて悩んで、あたかもそれが正しいと思い込み、余計なことまで考えてしまったりやってしまったりする。僕はそれがすごく嫌なのです。
ところで、なぜ余計なことを考えてしまったり、悩みすぎてしまったりするのかというと、一見良さげだけど、実は本当にダメで役立たずなある方法を、多くの人が知らず知らずのうちに実践してしまっているからだと僕個人は思っています。
それは両論併記。
それと
可能性。
それらをまとめると
是々非々
となるのですが、本当にこれが良くない、諸悪の元凶の一つだと僕は思っているのです。
マスゴミがミスリードさせるために多用するテクニックの一つが両論併記ですが、両論併記を目にすると、多くの人は「多数派より少数派の方が実は正しいのではないか」あるいは「事実は少数派の方にあるのではないか」という
極めて馬鹿げた発想
をしがちになります。もちろんそんなわけはありません。多数派少数派と事実は1mmも関係がありません。多ければ事実とか少ない方が事実とかそんなものはこの世のどこにもありません。事実はただ事実としてそこにあるだけ。
たとえば、原発反対派なんて(キチガイだからこそ)10人程度しかいないのに、マスゴミは両論併記でもって「まるで10万人100万人が大反対」というイメージを作るわけですが、ことほどさように両論併記は危険なのです。こういう意見もあるよっていうことじゃないの?、なんかしたり顔でぬかすバカもしますが、意見は意見でしかなく、事実は意見に左右されません。事実は事実であって、意見で事実が左右されるなどということはないのです。嘘であっても百回言えば事実になるなんてことは現在進行形で民族大虐殺をおこなっている気狂い国家中国か、その属国の朝鮮でしか起こり得ないのです。
また、お腹が空いたときに「うんこ食えばいいじゃない」ってのも意見ですが、そんなものは誰も参考にしませんよね。バカでもわかる話です。
まさに下手な考えなのです。マスゴミはこういう感じで両論併記を使います。なんの役にも立ちません。
次に可能性ですが、これも厄介で、どういうわけか1%未満であっても、可能性があるってだけで「異常なまでに重要視」する傾向がありますよね。これはあまたある物語のせいでもありますが、たとえば処理水。
ばかばかしいのですが、プールの水に血が一滴入ったらもうプールに入れないなんていうのはキチガイでしかありません。プールには大勢の人が入ります。中には体が汚い人だっているのです。そうそう海洋だって不法投棄が物凄いですよ。日本海の人ならわかるでしょ?小汚いハングル文字の入ったゴミが流れてきますよね?それでも魚を釣るでしょ?魚介類食べるでしょ?
また、キチガイの戯言を「議論」と呼ぶのも狂ってます。もちろんキチガイはキチガイなので理屈も理論も通用しません。狂ってるので。
問題なのは、その狂ってる連中の言い分を聞いてしまう層がいるということなのです。
もしかしたら本当にそうなのかも?危険なのかも?
なんていうパターン。そういう人、いそうでしょ?ほらほら、あなたの周りにもそういうバカな人がいるでしょう?
けど、現実問題として数%未満の可能性なら、そこにはなんの意味もないのです。ゼロなのです。ロマンもへったくれもありません。あなたは宝くじで億も当たりました?万馬券出しました?世界一の選手になれました?
もちろん億当たった人もいれば万馬券出した人もいれば世界一の選手になった人はいます。なぜなら「可能性はある」ので。
しかし、全員がなれるわけではないのです。
「だから諦めろっていうのか?」なんて暴論に持っていく人もいますが、そもそも幸運に恵まれる人はそんな暴論は1mmも考えてないと僕は思いますよ。
そういう人たちは「可能性に賭ける」ではなく「やることやる」「今の自分がやれることを(全力で毎日)やる」そういう人たちだとだと僕は思っています。
さて、ここからが僕の結論ですが、考えすぎるのも悩みすぎるのも、実は「やることやる」「今の自分がやれることを(全力で毎日)やる」の正反対。つまり
「やることやってない」「今の自分がやれることをやってない」
からだと僕は思っています。両論併記に騙される人もそう。結局やることやってないから「確たる信念」とか「自分なりの考え」がない。だから騙されるんです。ダメなものはダメという信念があれば、「現在進行形で民族大虐殺をおこなっている鬼畜国家中国にだっていい人はいる」的な発想にはならないのです。例外なく全員日本からでてけ!になるのです。
毎日全力でやることやってたら両論併記に惑わされません。可能性は自分で掴むものだと考えて努力を重ねるだけ。
いい人なんていうのは結局何もしてない、ダラダラ生きている人たちなんです。自分に確たる信念もないから、常に「いい人ぶる」んです。是々非々がまさにその典型。
是々非々とは「ダメなものはダメ」「いいものはいい」なのに、多くの人は是々非々を「例外事項」のようにして使っているのです。現在進行形で民族大虐殺をおこなっている鬼畜国家中国にだっていい人はいる」的な発想はまさにそれ。
やることやってる人はいい意味で自分に自信があるから、いい人ぶらなくても済む。ダメなものはダメと躊躇なく言える。
けど、だらだら適当に生きてる人は自分に何もないから「いい人」を装うんです。
中身がいい人は何を着ても様になるけど、中身が不細工な人は「服にこだわり自分を装わないと」ならない。そして装うために無駄に考え、無駄に悩む。
僕は偉そうにそう思っています。