「137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯」の感想

実は知らなかったのです。2010年に発売されてたんですね。
本当に素晴らしいと思える本に久々に巡り合いました。
過去でいえば新潮文庫の「アポロ13」のあまりの素晴らしさに、何度も何度も読み返した結果、本をボロボロにしてしまい、2冊も買い替えた経験があるのですが、この本もそうなりそうです。
衝撃的だったし、何か「新しい知的世界に足を踏み込んだ」ような錯覚すら感じました。
是非ともおすすめの一冊です。
さて、この本に対するAmazonのレビューの中には、全く頓珍漢でおそらくが日本語が読めない人が書いたのではないかと思われるものもあるので何の参考にもなりません。
では、この本は何が書いているのか?ということなのですが、ズバリ
認識できないものに関して科学者はどう対処するのか?(すればいいのか?)
ということが書かれています。
量子の世界は人間の目では認識できません。そして人間の心も人間の目では認識できません。
ではどうするのか?
量子の世界、つまりパウリは数学を駆使し思考実験を行うわけです。そして理論を構築したり定義を行ったりするのですね。こうではないのか?と。
人間の心の場合はどうかというと、これも目には見えないので、ユングは「タイプ論」「集合的無意識的」「元型」などの理論を定義した上(厳密的にはこの書き方は間違ってますが)で、これまでの人間の知的な活動(カウンセリングや神話、歴史、錬金術などの擬似化学など)からある種の推測を導き出すのです。こうではないのかと。
科学、というものに関して、多くの人は「まず理論を構築し」「実験を経て」「第三者の追認」の後で決まるものだと考えています。つまり「目に見えるものが全て」なんだと。
それっぽくいうなら「可視化」ということですが、科学とは認識できるもの、逆を言うなら、認識できないものは科学ではないということなのです。
しかし、ユングもパウリも「それは違う」と思っていました。
量子の世界も心の世界も実験なんてできません。それっぽい実験をしたとしても結果はバラバラになります。すでに量子力学では「観察者によって実験結果は変わる」ということが確認されています。ユングはどうかといえば、自身で「自分のカウンセリングで良くならなかった人は3割いる」と明言しています。理論に従えば確実に心の状態がよくなるなどとは全く思っていなかったのです。
実験さえすれば、アプローチさえすれば確実にどうにかなるというようなものではない現象に対して、科学者はどうすればいいのか?
実はいまだに答えは出ていません。
でも、わかります。答えなんてあるのだろうか?そう思えます。
137とは何か?これに関しては本を読んでいただくとして、まさにこれこそが「目に見えないもの」なのです。目に見えないもの、それはこの本では数字の4で表されているように思えます。目に見えるものは数字の3。
3とは西洋における近代以降の科学的思考の象徴。4とは対立構造を含む東洋的思考の象徴。
「一は二となり、二は三となり、第三のものから全一なる第四のものが生じる」
マリア・プロフェティサ
パウリはこの3と4で悩むということが延々と書かれています。母の死をきっかけに精神が不安定になってしまったパウリは、やがてユングのカウンセリングを受け、徐々に対立構造を含む東洋思想に傾注して行くのです。厳密であることを好み、些細なミスも見逃さない人間だったパウリ。しかし、知識にがんじがらめだった彼は、徐々にではあるものの、母や恋人、また自分の対する父親などで苦しんでいた自分の精神を理解することで、心の安定を取り戻し、そこから得られた理解をもとにして、物理学と心理学の統合を自分のライフワークにするのです。
確かに物理学と心理学は似ている、と僕も思います。そもそも理論を立てるのも実験を行うのも追認するのも人間です。ならそこにその人の「思いが紛れ込む」のは当然だと思えます。人は見たいものを見るものだし、見えないものは無視する傾向がある。
人は観るものしか見えないし、観るのはすでに心の中にあるものばかりである
アルフォンス・ベルティヨン
この言葉を知った時、僕はものすごい衝撃を受けたものですが、まさにそうだと思います。
しかし、それは何かが違うのではないか。ユングとパウリの知的巨人の慧眼に、僕は衝撃を受けました。
さて、個人的には「共時性」をめぐる部分が面白かったです。ユングはその守備範囲が広すぎたこともあって、ともすれば「インチキ」「法螺吹き」「よまいごと」的な言われがちですが、上記を読んでくだされば、なぜユングが錬金術やオカルト、はてはUFOにまで興味を持ったのかがわかると思います。そもそもユングはそれらに対する一般人の見解も心得ていました。「そんなものは馬鹿げている」です。しかしそこに研究の価値を見出していったのです。なぜならそれらも「人間の心の働きと何らかの関係がある」と考えたから。当時としてはとことん柔軟であったユング。僕はユングが大好きで、その著作は手に入るものは片っ端から読みました。けれど、僕も超心理学とかオカルトに関しては「そんなものは馬鹿げている」です。それでもそれらが大好きなのは、それに「人間の心理が反映されている」と思うから。
だから、ユングの名を語ってそれっぽいことを言ったり書いたりしている輩は大嫌いです。
ユングはそんな輩とは正反対でした。心とは何か?これを「ロジカルに」研究した知の巨人なのです。
ユングがいかに知の巨人であったかは、パウリとの文通でも明らかです。彼は当時としては最先端の物理学者と文通していたのです。もちろん物理学は彼の守備範囲ではなかったためにパウリから用語の使い方をダメ出しされたりレクチャーされたりいますが、それを嬉々として受け入れたどころか、それを心理学に応用できないかと考えていたというのはすごいとしか言いようがありません。
ユングの「共時性」というのは、因果律に縛られない現象のことです。こここれこうだからこうなった。これが因果律。原因があって結果がある。これが因果律です。しかし共時性はこの因果律に縛られません。同時並行的に何らかの関係性のあることが起こる。これが共時性です。
今月苦しいんだよなぁ。お袋から金借りようかなぁ、なんて思ってたら、いきなり母がやってきて「宝くじ当たったからお裾分け」
こういう感じ。しかしユングもパウリも、これを擬似科学とか超心理学とか、あるいはオカルト話だとは思っていませんでしたし、そういう想定もしていませんでした。
この共時性は易、つまり占いに対するユングの洞察から導き出されています。やったことがある人ならわかるでしょう。わかりやすく言うなら、10円玉を6枚用意してください。そしてそれを投げる。10円玉には表と裏があって、その組み合わせで吉凶を判断する。これが易です。
では、こう考えてください。
まずは占ってほしいことを頭に思い浮かべますよね。そしてものである10円玉を投げる。頭に思い浮かべたことと10円玉がどんな感じで裏表になるかは「無関係」です。そこには何の因果律もありません。
仮にその占いの結果が自分にはあっている、しっくりくる、納得できると感じた場合、それはどういうことなのだろうか?自分が10円玉を操作して裏と表を細工したわけではありませんよね。
そこには何の因果関係もないのです。ただ思った。そして10円玉を投げた。示唆に富む意見が出た。これはどういうことなのだろう?
心理的な事象の流れと物理的な事象の流れのあいだの関連はどのようにして生じるのだろう?
137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯 298ページ
観察者によって実験結果が異なるなどの奇妙な量子の振る舞いについての知識を共有していたパウリとユングは、この共時性こそが物理学と心理学を結びつけるもになると確信し、共同研究をおこなっています。この辺りは実に面白くまとめられていて、意見の相違や解釈論など、読み応え抜群なので、皆さんに読んでほしいことからここでは割愛しますが、知的巨人同士のやり取りはスリリング!でしかありません。
ところで、ユングのカウンセリングを受けたパウリは変わったのか?
ということに関しては、本にも書かれていますが、僕はちょっと違う意見を持ちました。やはり「変わった」のだと思います。長いスパンで、ということですが。いろいろな出来事があり、出会いも別れもあり、そしてその中にカウンセリングもあった。その全てがパウリを変えたのだと思います。その中の「どれかひとつが欠けたとしても」違うパウリになっていたのではないかと思います。
まさにユングの言う「個性化」です。
パウリの最後の願いは「ユングと話すこと」
どんな話をしようと思ったんだろう?やっぱり自分の最後となる病室の番号が137であったことかなぁ。
ほんとうに素晴らしい本でした。
皆様のご興味がございましたら、ぜひご一読を!