ユングのグノーシス研究は本当に間違っていたのか?

これを読んだのです。

グノーシス主義の思想 大田俊寛

注)Amazonのリンクを貼りたいのですが、日頃の行いが悪く、やれキチガイがどうのこうのと書いているようなブログでは審査も通らないだろうということでどうにもできません。上記のリンク先は春秋社のサイト内の紹介ページです。

      

上記は復刻版なのですが、僕が読んだのは復刻版ではない以前の本でして、帯にはなんとも刺激的な見出しが書かれていて、グノーシスについてもちゃんと知りたいと思っていたことから読んだのです。

けど、読めば読むほど疑問が湧いてきました。

ユングは本当に間違っていたのか?

そして読後の僕(注、僕は学問のプロフェッショナルではない)の答えは、

は、全然間違ってないじゃん!

となってしまったのです。

ではなぜそうなってしまったのか。今回はその理由をざっくりと書いておきたいと思ったのでして、興味のない方は鬼滅の刃の漫画など読んで有意義な時間をお過ごしください。

   

まずはグノーシスの解釈ですが、上記書によれば、この世の誕生というのは、まず至高神が自分の姿を泉に映したことからいろいろなものが流出してバルベーローとなり、バルベーローがアイオーンの神々を作り出したのちに、その中の末娘であったソフィアが、「自分も至高神のようになりたい!」と願ったことからヤルダバオードという獣のようなものが誕生。そのヤルダバオードがアルコーンの神々を生み出して「わしが神ね!」と宣言した。こんな感じかと思います。

この世というのは、実はヤルダバオードという獣が作ったもので、作る際にバルベーローがアイオーンを作った過程を真似したのはいいけど、ちゃんと真似できなくて中途半端になってしまった、こりゃ失敗!という、そういう世界なわけです。

けど、そもそもソフィアが生み出した怪物であるヤルダバオードはバルベーロー、というより至高神に対する憧れがあって、だから自分もそうなりたい。けれども、素晴らしい父の姿(に似た姿)を見ると、なぜかついつい欲情してしまい、汚してしまい(つまりセックスしてしまい)、自分のものにしようとしてしまう。そして「やっぱり気持ちいいからっていってセックスとかまずいよね。このままではまずいよね。どうしたらいいんだろう?」

グノーシスの世界はそんな感じなのです。

上記書ではグノーシスの思想を検討した上で、至高神を「父」と捉え、その父を探し求めることが大事なことであるとし、それを論拠としてユングの思索を否定するわけです。つまりグノーシスの教えとはユングのいう固体化過程ではなくて、父探しなのだと。

でも、言いたいことはわかります。上記の僕のわかりにくい文章に答えが隠されているのですが、すなわちグノーシス世界の構造は「入れ子になっている」のです。この世の神と呼ばれているもののさらに「上」に神がいて、神はその上の神の真似をしているに過ぎない。グノーシスの世界観はそうなっているのです。

だから、文献から読み解くなら、これはどう考えてもユングのいう固体化(自分が自分であると心の底から納得する)過程ではなく、むしろ神の神に対する憧れ、すなわち子供が親(この場合は父親)に対して憧れるという方が正しい!となるのでしょう。確かにフロイト的っすね。大田氏がフロイトとラカンにことさらに言及するのも納得なのです。

なるほど。

   

僕は上記でユングのグノーシスの解釈は間違ってないと書きました。ここまで書いてもそう思います。ではなぜ僕がそう思うかですが、

まず至高神とはまさに「集合的無意識」だと思います。そしてヤルダバオードは「個人の意識(個人の無意識も含む)」と考えます。それで終わり。あとは全部がスッキリ収まります。以上。

妙に入り組んだ難しい鏡の解釈とかを持ち出すまでもないですよね。

人間の意識というものは、個人の意識だけではなく、その奥底に「延々とつづく人類の思い」が内在している。それが集合的無意識です。この集合的無意識というものは、長年の人類の思いの蓄積と考えていいと思うのですが、その無意識の発露にはある種のパターンがあって、それが元型と呼ばれているものです。

ロールプレイングゲームの登場人物の思想設計の土台にもなっているこの元型という考え方ですが、それがすなわちアイオーンの神々な訳です。

元型自体は見ることができない。しかしその働きは人間を通して表れてくる。英雄。老賢者。魔術師などなど(詳しくは元型でググってください)。英雄という文字を見れば人々は英雄の姿を思い浮かべることができることでしょう。大谷選手なんてまさに英雄そのものですが、大谷選手を見るとなんとも言えない気持ちになって、尊敬してしまいますよね。まさに元型の働きです。グノーシスに当てはめると、大谷こそがアルコーンな訳です。

     

ところで、人間は死んでしまうし、脳みその中を覗くことなんてできないのだから、意識が蓄積されるとか、思いが延々と続くとか、そんなの無理!と思う方もおられるでしょう。それに無意識なんてそもそも個人”だけ”のものではないの?とか。

けど、全然そんなことはなくて、ちゃんと意識や思いは受け継がれているのです。あなたの目の前にそれがあるではないですか!

文明。日々の生活。

人々の生活の営みの中に人の思いは表れていますよね。遠い昔の「神に感謝してお祭りをしたり、自然災害に恐怖して人身御供を差し出したり」というのはその当時の人々の思いの表れ。今日まで続く結婚式やお墓参り。正月、クリスマス、七夕、宗教行事だってそう。なんの意味もなくなんの思いもなく生活しているわけではないのです。ちゃんと意味があって、その意味を具体的には分からなくてもやっているわけです。そしてそれらは子から孫へと受け継がれていきますよね。思いは受け継がれていますよね。子を思う親の気持ちだって受け継がれていますよね。まさに上記書での「可視世界」ってやつです。人間のすることだから間違いはたくさんあるけど、聖なるものへの憧れもあったりして、綺麗な景色を見ると神聖な気持ちになったりもしますよね。それが宗教の土台になったりしてもいます。

時代により思いの受け継がれ方は変わっていくことでしょう。しかし、受け継がれていくこと自体は変わりありません。夕日を見て感動することは個人の体験ですが、人間なら皆感動体験があることでしょう。その感動体験は誰かに教わったものでしょうか?

僕はこう思います。集合的無意識ゆえに「感動してしまう」のだと。

多くの人々のさまざまな思いがいろいろな形となって残っていきますが、その形から「思わずそうなってしまう」のではないかと思うのです。多くの人が感動したものは書籍となったり音楽となったり、親から教えられたりしてなんらかの形になって残っていきます。それが蓄積されていくうちに感動のパターンも決まっていく。

そしてそれは受け継がれていくのです。赤ちゃんや幼児は大自然の景色に感動なんてしないでしょう。しかし、物心がつけば感動するのです。それはまさに集合的な無意識のなせる技。

今風にわかりやすく言うなら「集合知」もっと乱暴に言うなら「インターネット」のようなものです。人の思いも文明が続くことで、人間の営みが続くことで集まっていき、よくは分からないけど、形作られる。それが集合的無意識なのです。

ユングは一人の人格の中に、意識や無意識(個人の無意識)があって、その奥底にも集合的な無意識があって、複雑な感じになっているけど、それが徐々に統合されていくのが人生だと考えました。それが固体化過程です。難しい言葉ですが、単に「成長」って感じじゃないかと僕自身は思っています。

というわけで、ユングの思索をグノーシスに当てはめてみても、なんの違和感もないでしょ?

そもそもユングは無意識の研究から神話や宗教に入り込んでいきました。そこにどのように「思いが集まっていったのか」を探るためです。そのほかにも錬金術や占星術、タロットや易や曼荼羅の研究も有名ですが、グノーシスの研究も有名です。

ユングはそれらの中に「人の思い」を探していたのです。

具体的には「なんらかの共通するパターン」で、それがまさに元型なのですが、ユングは世界各地に散らばる文明や生活の中に驚くほどそっくりなパターンを数多く見出していきました。

また、錬金術の研究では、本当に金を作り出そうとしたわけではなく、そういう思想を作った人の「心の動き」に注目しました。ユングの文献の読み方は「人の心の動き」に注目しているのであって、太田氏のように「文献を学問的に読み解く」のではないのです。そこは大田氏が大きな勘違いをされているように、素人の僕には思えます。錬金術のテキストがあった場合に、

金を作るという作業なのだから書物に従い、また当時の人の実験や生成方法から金の製造方法をどのように考えて、あるいは判断していたのかを研究する

というアプローチが正当だというのに対して

金を作るという突飛な作業の中に、その人のその当時の思いが反映されているのではないか?そしてそれが文章や図の中に示されているのではないか?

という違い。

当時の錬金術の書籍では金はまるで人間のように成長して形作られていくように記述されていますが、ユングはそこに「人の思い」を見つけ出したのです。きっとこういう感じで金も成長していくのだろう。それは科学的知識のなかった時代の人の考えで、今の人からすれば全くもって荒唐無稽でしかありませんが、当時の人の成長とはそういうものだったのではないか、そしてその成長を錬金の術にも応用して照らし合わせてみたのです。

  

最後に、僕は「大田氏が間違っている」とは微塵も思っていません。アプローチの仕方が異なっているというだけで、これはすなわちフロイトとユングの決別にも似たものがあるのではないかと思っています。

心の働きをあくまでも個人そのものに収めてしまうのか、あるいは心というものは個人だけのものではない(つまり、文明や日々の生活などのさまざまな要因があって形作られていく)のかという解釈の違い。

そういえば、上記書では性にやたらと言及するのもいかにもフロイト的だなぁって思いました。

フロイトの心理学はあくまでも個人。その人の心だけ。自分だけ。だからこそ

他人(の目)が気になる

のです。だから父をことさらに気にするのです。