過去には全くこだわらない
僕は過去に何があったのか、ということに関しては実はあまりこだわりがありません。
こういう言い方だと実はニュアンス的に違うのですが、言い換えるなら
過去は過去
グダグダ言っても何も変わらない
という感じなのです。わかりやすい例を挙げるなら「原爆」。
当時のアメリカ軍が日本に対して原爆を使用したことに関しては、実は僕は本当になんとも思っていません。
なぜならそれは過去だからです。
比較的身近な過去ではありますが、僕は経験していません。はっきり言うなら、原爆は過去に世界中で繰り広げられた悲惨な戦争と全くイコールの認識なのです。
たまたま色々な事情やら状況やらで日本に落とされてしまったし、悲惨な犠牲者もたくさん出たし、当事者にとっては憎しみとか怨念とか、ものすごい感情が渦巻いていることでしょう。当事者にとってはそれは過去ではなく現在進行形なのかもしれません。
それならわかるのです。しかし僕には原爆は過去の話で当事者でもなく、ましてや現在進行形でもありません。過去は過去なのです。
僕にとって最も大事なのは今現在がどうなのか、ということ。
これに尽きるのです。
原爆を落としたアメリカは今どうなのか?まだまだ原爆を落とし続けているのか?違いますよね。二発しか落としてないのです。しかも「過去」に。
確かに今も無茶苦茶な数の原爆を持っていますが、使ってはいません。大量破壊兵器を持ってはいますが、使ってはいません。
そんなアメリカを否定する気にはなれません。今どうなのか?なのです。
僕がとことん中国とロシアを全否定するのは、今現在何をしているか、を判断した上でのことです。
どちらの国も今現在、現在進行形でジェノサイドを行なっているからこそキチガイ国家なのです。1mmも評価する気はありません。どっちも滅びろ!と大真面目に思っていますし、仲良くなんてする気もありませんし、国民=国家だという認識なので、政治と経済は別だのスポーツに政治を持ち込むなだのといった綺麗事にも詭弁にも嫌悪感しかありません。全否定です。
今現在の悪事を否定しないでどうするのだ?
今はやがて過去になります。過去になってしまえば、歴史の記述になってしまえば、実際に苦しんだ人たちの苦しみなんて泡と消えてしまう。ただ数行の記述で語られてしまう。現にチベットはそうなってしまいました。もはや過去なのです。
過去の戦争で、どれだけ辛い思いをした人たちがいたんだろう?
けれど、なんとかの戦い、なんて記述で済まされてしまいますよね。で、どっちが勝ったかだけ。神様にでもなったかのようにして過去を見るわけです。
けど、その戦いに巻き込まれた人たちにとっては、それは過去ではなく現在進行形で、色々な思いがあったはずなのです。
本当に歴史から学ぶのであれば、というか、僕が歴史から学んだのはまさに上記の視点でした。
過去は過去。大事なのは「今」なのだと。
過去の事例を「今」に役立てる。確かにそうです。しかし、過去は過去で参考にはなれど、万能ではありません。そこは勘違いしたくはないです。あくまでも「過去はこうだった」というだけのこと。
さらに、過去の歴史と称して重箱の隅を突いてあーでもないこーでもないとやるのは、一部の人には楽しいのかもしれませんが、僕は楽しくもなんともありません。やはり過去は過去だからです。
歴史の最大の落とし穴は「あたかも神の視点を得たような気になってしまう」こと。サヨクのみならず保守系の人にも結構いると思っているのですが、あなたは神ではありませんよ。歴史を学ぶと称して神の視点で見るのは危険です。あなたは万能ではないのです。歴史のたらればはまさに神の視点。本当によくないと僕は思っています。
もちろん、すごい人がいた!日本すごい!
そういう過去は誇らしい。
そしてそういう日本に生まれた僕は幸運だと思う。
けど。
それでも過去は過去なのです。今現在を一生懸命に生きないでどうするんだと。過去ばかり振り返ってもしょうがないではないかと思うのです。
過去ではなく今現在。
これが大事なのです。