なぜヨーロッパの風景が素晴らしいのか?

そう思い込まされているだけなのか。それともやっぱり本当にそうなのか。
実際、僕にはヨーロッパの風景は美しく見えるのです。
見えるのだから仕方ないのです。
そして、そう思い込まされているだけなのか、それともやっぱり本当にそうなのかはわかりませんが、
中国朝鮮の風景は薄汚く見えるのです。
差別?
意味がわかりません。僕にはどう見えているのかというだけの話なので。
何か洗脳のようなものを受けたのかもしれませんね。あるいは本当に薄汚いものを正当に評価しているだけなのかもしれません。とにかく僕には中国や朝鮮は昔から汚く不潔に見えたし、今でもその印象は変わっていません。風景がとにかく汚い。そう見える。どうにもなりません。
もちろん一応の歴史は知っています。排水下水という概念がなかった中世都市の惨状。香水やドレスの発達の裏に何があったのか。
けれども、これはおそらくは多くの人が割と簡単に陥りやすい罠だと思っているのですが、昔がそうだから今もそうだとは限らないのです。中世は中世。今は今なのです。
昔汚いから今も汚いとはならないのです。
さて、実は僕はある考えを持っているのです。このブログでは一貫して書いているはずなのですが、大事なのは
今はどうなのか?
ということ。昔は色々あって当然だと僕は思っています。冷酷ですが、そもそも人権という概念すらない時代は、ある種の試行錯誤が欠かせないのだし、それには多くの犠牲も伴いました。歴史を学ぶと、悲惨なことの連続ですよね。
僕など、昔の時代に生まれていたら、名も無いままひどい死に方をしたのではないかと思います。昔の戦場になんて絶対に行きたくないです。どれだけ悲惨な死に方をしたんだろうと思うと、いつも背筋が凍ります。
けれども、その試行錯誤の結果として、人は学び、そして少しずつではありますが、世の中も良くなっていったのではないか。僕はそう思っているのです。
そして、なぜヨーロッパの風景が綺麗に見えるのかということなのですが、実はそれが大きく関係しているのではないか?というのが僕の説なのです。
風景というのは、実は人の心が深く関与してきます。どう見えるのか?ということだからです。多くの人がこれまた誤解しがちですが、風景って、実は人の手が加わっていることが多いのです。日本の田園地帯は昔からそうだったのではありません。人の手で開墾され、田んぼになり、人が住んでいったのです。人の手が加わっているのです。田園地帯は「日本人の風景、自然観」が反映されています。
日本の風景が素晴らしいのは、つまり
日本人の自然観が素晴らしいから
なのです。
ここまで書いたらもうわかっていただけると思うのですが、ヨーロッパの風景は昔かそうだったわけではないと僕は思います。色々な歴史を踏まえ、そこから学び、そしてそこに住んでいる方々の自然観が育まれた結果として素晴らしくなった。あるいは素晴らしくなってしまった。だから美しく見えるのです。
では中国朝鮮の風景はどうなのか?
もうお分かりだと思います。
昔から全然変わってないのです。学んでないのです。自分中心のものの考え方。暴力暴力暴力。虐殺虐殺虐殺。嘘にゆすりたかりに泥棒に。昔から1mmも変わってない異常性。
そんなものから美が生まれるわけがないのです。
中国朝鮮の自然が薄汚いのは、当然のことなのです。
あ、ちなみに、中国朝鮮にも綺麗なところはあると思いますよ。けど、そこは秘境であって人が全くいない場所。そりゃあ汚染されてないなら、手付かずの自然があるなら、綺麗なのは当たり前でしょう。