宗教の詭弁

上記の記事ですが、あっさりと、しかも簡潔に否定することができます。

簡単です。

人類はまだ滅んでない

のです。

はっきり言って、どの宗教も実はノストラダムスの大予言と全く変わりません。人類は滅んでないし、破壊されたらなんのかんので復活するのです。仮に復活しなくても、実はそんなものだったってだけのこと。なんでもありません。ただ、人間が右往左往しているだけ。人類が滅んでも、他の動物は何とも思わないでしょう。

自分がある日突然ぽっくり死んでも、社会は何事もないのと一緒。人間が絶滅したところで他の生命体はそれなりに存在して活動していくでしょう。

   

そもそもどの宗教にも致命的な欠陥があります。

神の存在を証明できないのです。

どこにもいないので証明したくてもできないのが実情でしょう。感じるという都合のいい言葉もありますが、感じる=存在するではありません。

そしてこれまた致命的な欠陥なのですが、仮に神が存在するとしても、それは神ではないのです。なぜなら、人間の願いを聞くのは神の概念としては当てはまらないからです。

人間の思い通りに願いを叶えるなんて、良く言っても僕(しもべ)、悪く言うなら奴隷でしかありません。

全知全能の神は人間に対して1mmだって媚びるわけがないのです。

思い通りに動くのはしもべか奴隷。それの何が神なのか?

   

宗教の最大のポイントはどれもこれもがこれに帰結するのですが、結局のところ、

自分はいい人である
いい人になりたい

ということなのではないでしょうか?じゃあどうしていい人になりたいのかというと、

いい思いがしたい

からです。もっと抉るなら

自分だけはいい思いをしたい

のです。天国に行きたいのだし、苦しみのない世界に行きたい。ですよね。辛い思いはしたくない。もちろん連帯責任なんて嫌ですよね。一人でも悪なら人類は連帯責任で全員地獄行き!なんてことにはなりたくないはずです。

神の教えを守れば「自分は天国に行ける!」正しく生きたら「自分だけは豊かな人生を送ることができる!」

言い方を変えるなら、

自分だけはいい思いをしたい

ってことなのですが、実は残念なことに、人生はいいことばかりじゃないですよね。辛いことも本当に多い。その中で自分だけはいい思いをしたい。豊かな人生を送りたい。いい人だと思われたいわけです。あるいはこの世では辛くても、あの世ではいい思いがしたい!来世ではいい思いをしたい!

けど、どうしたらいいかわからないし、自分だけがいい思いをしていると思われたくもない。

そのための方便が宗教だと僕は思っています。

さらに言うなら、宗教はどの宗教であっても共産思想とほぼ同じで、極めてサヨク的だと考えています。

  

怒ることは悪くありません。そういう機能が人間には備わっているのです。機能を適切に使えたら最高ですが、なかなかそうはできないってだけの話です。

僕は上記の文章を読んで、正直反吐が出ました。

キチガイに対してキチガイと言ってはいけない!

という詭弁とそっくりだと思ったからです。ダメなものはダメ。そういう尺度はどの社会でもあるはずです。その尺度に従えばいいだけの話なのです。

怒るのは当たり前。仏教が根本的に間違っているのです。

良く読むとわかりますが、かなりの極論を、さも最もらしく書いているのです。怒ったから人を殺すのは極論でしょう。普通は怒っても人を殺しはしません。多くの人、ほとんどの人は

怒りを表現するだけ

です。話したり書いたりするだけです。あるいはまれに肉体的暴力を使う人もいるでしょう。けれど、多くの人は怒りで人を殺しません。確かに

あんな奴は死んでしまえばいい

とは思いますが、思うだけで、思ったら人が死ぬかといえばほとんどの場合、死にません。

  

僕はキリスト教も大概だなぁと思っていますが、仏教も大概だなぁと思っています。どっちもどっちだと思っています。自分だけはいい思いをしたいという実は極めて利己的な発想に、さまざまな最もらしい(へ)理屈を貼り付けただけだと思っています。

そもそもがおかしいのです。

なぜ地獄があるのかと。

神なら助けろよと。全員天国でもいいだろ?

そう思いませんか?

しかし宗教には地獄があるのです。そしてそこに行かないためと称して、あーでもないこーでもないと屁理屈を並べるのですが、それって結局は

人を選ぶ

ってことでしょう?それは差別ではないのですか?

ユダヤ教が突出しているだけで、あらゆる宗教は結局

選民思想

でしかありません。人を選ぶよと。僕はそんなものには選ばれたくないですね。そもそもいもしない神に選ばれるって、なんの冗談だよと。