ウクライナにネオナチはいるのか?

思考実験をしてみます。

日本にどこかの国(以後C国と呼びます)が攻撃してきました。

とても苛烈な攻撃で、さすがに「日本人全体」が怒りの声を上げて、対抗しました。文字通りほぼ全員です。

国際社会も非難の声を上げました。

さて、この侵略行為を側から見ていたジャーナリストが「したり顔で」こう言いました。

日本には極右団体がいて、彼らがC国を刺激するようなことをずっと主張してきた。さすがにC国の留学生を拉致監禁したりするようなことはなかったけど、その言動からC国を差別していたことは間違いない。C国からの国民の受け入れも断固拒否で、日本に外国人(特にC国人)は必要ないと話していた。まるで宗教のように。また、自分達のシンボルとして日章旗を用い、C国以外の国、例えばK国も否定するなど、それまでの日本政府の公式な立場である過去の反省をまるで踏まえず、K国に対しても過激な言動をしていた。かられの思考はきわめてネオナチに近い。

さて、問題です。

日本にネオナチは存在するのでしょうか?

  

    

はっきり書いておきます。ウクライナにネオナチがいるのかどうか。その答えが上記です。

自分こそが正しくて、重箱のすみをつついて主張するような、僕の言葉で言うなら「サヨク」ですが、サヨクなら「いる」と答えます。

しかし、頭のおかしいサヨク以外の普通の人は

そんなものはいない

と答えるはずです。

どの国にも国粋主義者はいます。それをネオナチと呼ぶなら、どの国にもいることになります。文字通りどの国にもです。

僕はある意味で国粋主義はとても大事なことであり、ごくごく当たり前だと思っているので、彼らがネオナチだとは思いません。逆にグローバルこそ人類のさまざまな知恵や知識、仕組みを破壊する悪き思考だと思っています。

実際、ローマが荒れ果てて民族大移動が起きた際、ヨーロッパはどうだったでしょう?

あまりにも長い間、数字にすれば400年程度、ヨーロッパは不毛の地と化しました。北斗の拳の時代。大殺戮の時代。

けれど、それを綺麗な言葉で言い換えるなら、まさにその時代のヨーロッパこそ

グローバル

だったのです。

それぞれの地で、そこに合わせた文明文化が発達していくのは当たり前で、それが極まると国粋になります。当然のことです。それを悪だというのがグローバル思考。どんなに頑張ってもイギリスでお茶は栽培できないし、赤道で雪は降りません。

ああ、僕には重箱のすみを突いて、なんとかして例外を探して、したり顔で「それは嘘だ、こういう事例があるよ」と言い出すバカが出てくるのが見えるよ!

 

    

自分は公平中立で、どちらの言い分も聞く

という時点で、実は公平でも中立でもなくなります。なぜなら、それはイズム、主義だからです。公平中立であろうとすることが強迫観念となるし、どちらの言い分を聞くことも強迫観念となるからです。簡単にいうなら

そうしなければならない

になってしまうのです。

では、本当に公平中立でどちらの言い分も聞く人はどうするのか?

というと、きわめて簡単で、

ルールに従う

これが正解です。これは「悪」に対しても言えることで、法に従わないなら例外なく「悪」なのです。

しかし、自分は公平中立で、どちらの言い分も聞くという思い上がりが、余計なことまで聞いたり重箱のすみを突いたりするのです。やくざ一人一人はいい人が多いとかね。プーチンとロシア人は違うとか、中国共産党と中国の人民は違うとかね。少数の声ばかりを取り上げたりね。

   

人類は進化してきたと僕は思っています。その最大のものは「法(約束)」です。直接的な暴力ではなく、法(約束)により動いていこう!僕はこれこそが人類の進化だと思っています。

仮にネオナチが本当にいるなら、無関係の多くの市民を殺害してもいいのか?

いい訳ないだろ!戦争犯罪だろ!

相手の言い分を聞いたら、市民を無差別に殺害していいのか?

ダメに決まってるだろ!

ヤクザの言い分を聞いて、じゃあ暴力OKとなるのか?

なるわけないだろ!

自分は公平中立で、どちらの言い分も聞くというのは、実は法(約束)を無視する最低の輩。習近平やプーチンと1mmも変わらないキチガイ連中なのです。

ダメなものはだめ。
悪は悪です。

どんなに糊塗しても。

侵略戦争は侵略した方が100%悪いのです。