差別というものの本質は

自分はいい人である、理性的である、他の人間を平等に扱う人である、話がわかる人である。

こういう人間が最も差別を生み出すのである。

実のところ、人間は絶対に差があるのであって、その差には当然

良し悪し

もあるのである。

さて、多くの人は、差があることは認めるのであるが、その差に

良し悪しがあることを頑なに認めようとしない

人たちがいる。それが

自分はいい人である、理性的である、他の人間を平等に扱う人である、話がわかる人であるアピールをする人なのである。

残念なことに、世の中には

不細工
体臭が臭い
頭が悪い
暴力的
わがまま
怠け者

などなど、どうしても平均的な水準から外れてしまう人間がいる。しかし、自分はいい人だという輩にかかると、そういう人を

無理やりに平等に当て嵌めようとする

のであって、それが物事を歪めてしまう。例えば、不細工は不細工なのに、多様性だの個性だのと言い張ることで、不細工というものの本質を歪めてしまうのである。

大事なのは本質なのであって、形の整ってないものが不細工だと呼ばれるのはごくごく当たり前のこと。不細工であることは当然ではないのだ。例外的だからこそ不細工なのだ。不細工だらけの世の中であるなら、もはやそれは不細工とは言わない。

つまり、不細工は「少数」だからこそそう呼ばれる。

  

ところで、これを別の角度から言うなら、自分はいい人である、理性的である、他の人間を平等に扱う人である、話がわかる人であるという勘違い人間の最大の特徴は

自分は少数派を尊重するアピール

なのである。しかもその場合の少数派を「イコール弱者」だと認識している。つまり

弱い者の味方アピール

なのである。

不細工と言われて可哀想。でも僕は私はそういうことはしない。だってそれは弱いものいじめだから。

実はここにこそ差別の本質が隠されている。

自分はいい人である、理性的である、他の人間を平等に扱う人である、話がわかる人である。

という人は

無意識のうちに相手を差別しているのである。

だからこそ、それを打ち消すための言動に走るのだ。いやいや自分は少数の人を馬鹿にはしないのだと。

  

不細工を売りにする芸人は割といるのだが、その芸人は自分は不細工だと公言することで、

自分は少数派だけど、弱者ではない

アピールをしている。するとそれを受け取る側は、自分はいい人アピールをしないで済む。すると、心理的にとても楽なので、好感度が上がる。

こういう仕組みなのだ。少数の人間は自分を「弱者」にしないことで、好印象を得ることができる。少数の側の生存戦略とも言える。

 

差別というのは、弱者を否定することだ。しかし実際には

弱者=少数

という変換が行われ、しかるのちに

多数が少数を否定すること

にすり替わってしまっている。このすり替えに気づかないのが

自分はいい人である、理性的である、他の人間を平等に扱う人である、話がわかる人というアピールをする輩である。

自分はいい人なので差別なんてしていない。そう言い張ることこそが実は差別につながっているなどとは微塵も思わない残念な人たちなのだ。

しかも、これには

区別=差別

という誤変換すら加わっている。物事の本質を捉えるなら、不細工は不細工でしかない。それは「区別」と呼ばれるものだ。美醜という概念からすれば、美の反対は醜さである。しかし、相手を不細工というのは「かわいそう」であるが故に「それは差別だ」と変換される。本質から離れたところでいい人アピールをすることとなる。

これが今風の「差別」の正体なのだ。

  

少数派と弱者の違いは何か?これは極めて単純で、

アピールできるかできないか

の違いのみである。

本当の弱者はアピールできないのだ。アピールできないからこそ弱いのだし、だからこそ弱者なのだ。不細工であっても、自分は不細工アピールをしたら、もはや弱くもなんともない。それを強みにできる分野もあるし、それで大金持ちになることだってできる。五体不満足の彼はまさにその典型例だ。

しかし、弱者は自分の不細工をアピールできない。恥ずかしかったり、自分の不幸を呪ったり、あるいは本当に声を出せずに苦しんでいたりする。自分はその他大勢ではなく、明らかに不細工だと認識し、それ故に隠れるようにしてひっそり暮らしている。自分は不細工だと認識しているからこそ不細工だと言われるのが辛くて、傷ついている。

  

そんな弱者を本当に助けることができるのは、権力者か大金持ちしかいない。

 

その不細工は売りになると励ましたり、あるいは整形したり。チャンスを与えることができる。権力者か金持ち以外に、そんなチャンスを与えられる人はいるだろうか?

   

本当の弱者はそのアピールができない。だからこそ「差別してはいけない」のだ。そして、アピールの機会を作ってあげられるのは力のある人のみ。

  

勘違いしてはいけない。

少数派だってアピールしなければいけないのだ。自分はその他大勢なのだと。あるいは「人となんら変わらないのだ」と。しかし、勘違いしてはならない。アピールしたところで、不細工であることは消えてなくならないのだ。

不細工はやはり不細工なのだ。

  

少数派は多数派に「アピールしなければならない」。しかし、このアピールはなぜか「権利の主張」にすり替わる。多数派はここに気をつけなければならない。

権利の主張は実は少数派だろうと多数派だろうと

同じように扱わなければならないのであって、どちらかを優遇することではないのだ

これまた多くの人が誤解しているのは、少数派の権利の主張を当然だと思う一方で、

多数派はそれを無条件で受け入れ、なおかつ不合理があっても我慢すべき

ということ。そうではない。権利は少数だろうが多数だろうが等しく持つべきものなのだ。

朝鮮人は少数派だから差別するな!日本人は黙って俺たちを優遇しろ!

に対して、

はぁ?ふざけるな死ね!

これが正しいのだ。差別は数で決まるのではないのだから。