タルコフ氏キーの映画を観るのは修行と同じ
どういうことかというと、言葉は悪いのですが、
綺麗だけどひたすら単調な映像を見続けることで、
最後の最後に!
ほんのちょっとの、けれど、何か「真実めいた」感動が味わえる
そういう意味でまさに修行だと思うのです。
僕はタルコフスキーの映画の多くを映画館(それっぽい映画専門の映画館や上映会)で観ているのですが、必ず最初は途中で寝てました。
というのも、当時は一度入ったらずっと入りっぱなしで観ることが出来たので、それが可能だったのです。今のように入替制ではなく、一度入ったら二度でも三度でも観ることが出来たのでした。僕は大抵朝初回上映に行き、帰りは夜というパターンで、最高で同じ映画を3回観たことがあります。しかも昔は同時上映というパターンだったので、つまりは3×2回も映画を観てた計算。そんだけ観てたらそりゃあ朝に入っても夜になります。
まあそれだけ観てたら、流石にタルコフスキーの良さに気付けたというか、それだけ観ないと気づけなかったというか。
いずれにしても、最初はどうしても寝てしまい、これではもったいないと思って気合を入れて観、そしてじわっと
なんかすごいものを観た
という気になる。あるいはさせられる。それがタルコフスキーの映画だと思います。
苦行の末、何かを得る、あるいは得たってことですね。
じゃあ、その「得た」のはなんだったのかというと、何かはわからないけど「真実めいた」何か、としか言いようがありません。ストーカーの有名な少女の超能力のシーンなんて、まさにまんま「真実めいた」何か、ですよね。
だから何?
冷静に考えたらそう言えなくもない、その「真実めいた」何かのために、延々と観る。
それがタルコフスキーの映画です。最後まで見ることが大事なのです。じゃないと、最後のそのシーンの感動が薄れるというか。
なんか、批判しているように書いてしまいましたが、そうではありません。
映像を切り取ってしまえば、本当に素晴らしいと思うし、音楽もバッチリだと思っています。まさに映像の魔術師だとも思います。
あくまで、物語としては単調だというだけで、映画そのものは僕は大好きだったりします。
矛盾していますが、逆にそれくらい何か振り切ってる方が、映画としてはいいなぁと。
ダリオ・アルジェントもそうですが、物語としては疑問であっても、映像が強烈だと、映画として成立してしまう。それが映画の力だと思います。