学ぶことがとっても大事
https://ja.wikipedia.org/wiki/岡村勲
自分の妻を殺されたことで、考え方が変わったそうなのですが、被害に遭わないとわからないというこの情けなさ。
勝手に想像しますが、勉強して頭も良くて、本もたくさん読んで、それで頭でっかちになってしまったのでしょう。人権という概念をこねくり回した挙句、加害者ばかりにものすごく気を遣うようになってしまったのでしょう。
茂木誠さんの世界史を受講したらよかったのと思わずにはいられません。
人権とは、結局のところ、キリスト教上の概念なんです。人権という概念にはどうしても神という存在が不可欠なのです。神が人に直接与えたもの。それが人権なのです。今ではそれがどんどん普遍化して「元々、全ての人に備わっている権利」となっていますが、その大元は神が人間に与えたものなのです。
従って、キリスト教社会において人権問題を考えるなら、
誰かの人権を奪ったものを裁く(裁ける)のは、人権を与えた神のみ
なのであって、だからキリスト教圏では死刑廃止が広がっているのです。人が人を裁くのはおかしい。なぜなら、権利を与えたのは神だから。
しかし、それは日本では受け入れられません。なぜなら日本にはヤハウェは存在しないからです。人殺しておいて、裁くのは神だと言われたら
「はぁ?」
です。殺され損なんて乱暴な言葉は使いたくありませんが、まさにそうだとしか思えない。僕は敵討ち制度はすごくバランス感覚があるいい制度だと思いますね。やられたらやり返す。これが一番スッキリするのではないでしょうか?そもそも刑法の成立は、敵討ちを個人ではなく国が代わりに行うという代理行為としての側面もあるのです。
はっきり言って、神なんてものはいません。いや、正確にはいますが、それは、その存在を信じている人の頭の中だけで、神はその個人の頭の中から出てくることすらできません。そんな神に人と人の関係上のゴタゴタの仲裁を任せるなんてことはナンセンス以外の何者でもないとしか僕には思えません。
人を一人でも殺したら基本的には死刑
それの何が悪いのか全く僕にはわからないです。複数人殺しても死刑を躊躇するその態度も判例も異常だと思っています。
さて、そんな話を思い出したのがこの動画
はっきり書いておきますが、綺麗事をいう輩はどんどん襲われたらいいと思います。そうじゃないと学ばないなら仕方ありません。よくみなさん言いますよね。
学びは大事
学ぶことが大事
だと。僕も心からそう思います。