北海道根室市の店員切りつけ事件で逮捕された中学生の責任
最近、この手の事件が多い気がします。
なぜなんだろう?
素人には見当がつきませんが、あるいは本当にたまたま偶然この手の事件が重なっただけなのかもしれません。
けれど、なぜかこの手の事件が重なると
何か(共通項が)あるのではないだろうか?
などと思ってしまいます。個人的にはこれは先入観だろうと思うので、なるべくは意識しないようにしたいものだと考えています。
二つ指摘してみたいと思います。
なぜ刃物なのか、ということ。当然のことながら、殺傷力が極めて強く、そしてあまりにも扱いやすく、さらには身近にあるものといえば刃物だからで、あくまでも個人的な意見ですが、日本が銃社会だったとしたら、アメリカ並みに悲惨な事件が多発していたのは確実だと思っています。少人数ではなくて大量殺人になることでしょう。
刃物を持ち出した時点で、殺傷する気まんまんなのは間違いなく、そして多くの人は刃物に対してあまりにも無力。よく「格闘経験がある」なんていうような人がいますが、断言してもいいです。そんな人でも、大半は刃物に対して全く無力。
切り裂く用途に特化した刃物を人間は基本的に防護できないのです。しかも、刃物を持ち出した時点で、相手は狂ってると考えていいのであって、そういう相手に対峙するのは、それなりの経験がないとこれまた無理です。僕は剣道をしていましたが、切れない竹刀であっても、理性のある相手であっても、その気合の迫力に気圧されたことは数知れず。
何が言いたいのかというと、相手が刃物を持っている時点で、あるいは「気がふれている」と感じた時点で逃げるのが最も正しい対処法だということです。逆に最も良くないのは、話しかけたりすること。話せばわかるという時点を通り越しているから刃物を持っているのです。
さらに大事な点だと個人的には思っているのは、悪いのは誰かということ。
当然のことながら、刃物を持ち出して人を殺傷した、あるいはしようとした輩が悪いに決まっています。
けれど、たとえばこういう言い方がされたりしませんか?
最近のコロナで閉塞感があり、政府の対策もゴテゴテに回った感があって、経済的にも大ダメージを受けた。そういうことが重なった結果として、やり切れない思いを持ってしまった一部の人が、こういう行為に走ってしまった。
あるいは
いじめられたり嫌なことがあって、人生が嫌になり自暴自棄になってしまった
いかにも新聞や週刊誌などのマスゴミが主張しそうなことですよね。
いやいやいや。
悪いのは個人です。その個人の罪を、なぜか一部の人たちは「政府」などの権力者のせいにしがちではないですか?あるいは社会のせいにしがちではないですか?
しかし繰り返しますが、悪いのは個人です。辛い思いをしている人の多くは歯を食いしばって耐えています。犯罪なんて考えない。夢や希望に縋りながら、必死に頑張っているのです。
あくまでも悪いのは刃物を持ち出して人を傷つける個人なのであって、ゆえに全責任を負うべきです。つまり「人が死んだら死刑」ということ。
日本では、この種の事件の責任がなぜか希釈されてしまうことが多いように思うのです。社会が悪かっただとか、それまでの生活が不遇だったとか。
なんとかして、どうにかして、個人に責任はない、あるいは個人の責任は薄いというようにしたがるように思えるのです。
僕はそれはとてもおかしいと思います。
個人の行為の責任は個人が負うべきだからです。
みんな辛い思いをしています。誰か特定の人に辛さを押し付けているわけではないのです。しかし、結果として社会的な不遇や最低の生活環境に身を置いている悲惨な人もいます。なんで俺だけが?どうして私だけが?と思う人もいることでしょう。けど、みんなその境遇により、それなりの辛さを味わっているのです。
とても大事な点だと思っているのですが、
「自分は悲惨で、だから誰かを殺めたい!」と思っている人を探すことも、止めることも、基本的にはできない
ということ。人は人の心を読めないのだから当然のことですよね。だからこそ責任は個人にあるのです。
法的な解釈はさておき、当然中学生であってもです。なんなら小学生であっても。
ところで、社会的境遇で不幸のどん底にいる、たとえばいじめで苦しんでいる人が殺意を抱いた場合はどうすればいいのか?という疑問があると思います。それについての個人的な意見は明日にでも書いてみたいと思います。