血を吐きながら続ける悲しいマラソン
ウルトラセブン26話「超兵器R1号」は、戦うことの愚かさを淡々と表現した名作という扱いを受けています。
確かに子供の頃の僕は深い感銘を受けました。
そうだよなぁと思ったものです。
しかし、そう思うのは子供時代まで。
実際には兵器開発競争は続けなければならないし、続けるしかないのです。
自分たちが超兵器を作ったら、相手はさらに強力な兵器を作る。するとこちらも対抗してさらなる超兵器を作る。すると相手はさらに強力な兵器を作るのだから、キリがない。こんなものは血を吐きながら続ける悲しいマラソンだと、まあそういうことが26話では表現されているのですが、じゃあ兵器開発をやめます!となったらどうなるのかというと、侵略されて終わりなのです。
なぜこれがわからないのか、不思議なのですが、綺麗事が好きな人にはわからないのでしょう。
実際に人類の歴史は超兵器の開発競争によって続いてきました。
今、軍隊は青銅器で攻撃なんてしません。効率の悪い投石機なんてどこにもないし、馬で槍で突き合うこともない。人力で漕ぐ船もありません。戦車、戦闘機、戦艦です。昔の時代には考えられなかったまさに超兵器のオンパレードです。
昔の時代からしたら、考えられないレベルの兵器のインフレーションです。
では、その人類の兵器の歴史は血を吐きながら続けてきた悲しいマラソンだったでしょうか?
全く違います。
むしろ今は超兵器の均衡によって、大規模な戦争なんて起きない。
悲しくもなんともありませんし、戦いを避けるためにはそれが必要なことだったのです。
言い換えるなら、超兵器はとても大事で、兵器開発は人類にとっての死活問題なのです。
地球防衛軍の大失敗は、兵器のテスト地の選定でした。生物なんていなさそうな惑星を選んだつもりが、そこには生物がいた。悲劇と一言で片付けるにはあまりにも致命的なミスでした。
逆に選定ミスさえなければ、兵器実験は大事だし、兵器開発も大事で、そしてミスはあったものの、兵器は無事にテストクリア。いいことづくめでした。
相手がさらなる超兵器を作ったら?
さらなる超兵器で対抗する以外ありません。
馬に乗って「ヤァヤァ我こそは!」なんて、今の組織化された軍隊に立ち向かったところで全く通用しないのです。それで殺されて本望なんていうのは、優しく表現しても気狂沙汰でしかないのです。