「武士は食わねど高楊枝」という危険思想

清廉潔白なのが素晴らしい!清貧こそすばらしい!贅沢は敵だ!
というのは、僕は
極めて心の貧しい危険な思想
だと思うようになりました。昔はバカだったので、清廉潔白、清貧であることは素晴らしいことだと思ってましたし、贅沢は敵でした。金を稼ぐのは悪いことだとすら思ってました。金持ちは基本的に悪人という感じでした。
しかし、それは本当に危険でよくないことだと今なら言えます。清廉潔白、清貧、贅沢を憎む心こそがサヨクを生み、そして暴力を生じさせ、それにより共産主義や全体思想、毛沢東のようなキチガイを生み出すのです。
理想や綺麗を追い求める社会は必ず歪む。
ロベスピエールをご存知でしょうか?
クロムウェルをご存知でしょうか?
ポル・ポトは?
一見、綺麗なことを言うのみならず、清廉潔白である方ばかりです。悪を憎む心も十分すぎるほどに持ち合わせていました。
しかし、彼らがしたことはどうだったでしょう?
とかく綺麗事を唱えるような人が権力を握ると、基本的には全部暴走するのです。なぜなら世の中は自分の理想や都合に合わせてはくれないから。そしてそれに彼らは我慢ができなかったのです。
世の中は間違ってるんだ!
と。
人のみならず、マニ教、そしてカタリ派、現代で言えば共産思想もそうですが、自らを「清い」とし、相手にもそれを求めることは、イコール暴力の行使に繋がり、結果として(大きな)害にしかならないのです。
清廉潔白であることも、清貧であることも、僕は否定はしません。しかし、僕はそれは
決して到達することのできない理想
なのであって、もっと言うなら
人を騙すためのインチキ思想
だと考えています。はっきり言うならサヨクの特徴と一致するのです。自分が正しいという異常な連中と全く同じ。考え方が汚れていてはいけない!という極めて閉鎖的な考えと一致するのです。
金儲けは人間の正常な活動であって、だから貨幣経済はなくなりません。実際今日までずーっと続いています。若い頃、とても驚いたことがあるのですが、かなり昔から世界は金で動いているのです。例えば学校の教科書では「いくさが行われた」としか書いていませんが、そのいくさをするためには莫大なお金が使われています。それは紀元前の戦争であっても同じで、王様がお前ら戦え!おー!ではないのです。
戦うには人やものなどあれこれ調達しなけばならず、それは善意で行われるわけではないのです。方法の如何を問わず金がないと兵器武器が買えず、人が集まらず、戦ができない。金なのです。わかりやすい例で言うなら十字軍。
ギリシャで始まった民主制だって金まみれです。選挙では文字通り湯水の如く金が使われていました。とことん根っからの金権政治です。じゃあそれが悪かったか、全部悪だったのかと言えば、そうとも言い切れません。
今でこそ名画と呼ばれている絵画だって、当時はほとんどがパトロンがいてこその商売であって、パトロンの金がなかったら画家なんて存在できませんでした。食えないんだから。
大昔から何をするにも金なのです。歴史の流れは金の流れ。
すごく間違っていることがあると僕は思っています。
金は悪であるという考え方です。
金は金でしかない。例えば虎ノ門ニュースなどでの武田先生の話を聞いてて、実に危ういなと思うのは、金と精神性をバーターしているところであって、金と心は全くの別物です。そもそも両方並び立ちます。
しかし、多くの人は精神性と金を反比例で考えてはいませんか?
そして何よりも精神性を重んじるという発想になってませんか?
それって本当に正しいんですか?僕はその考え方は大間違いであるどころか、かなり危険ではないかと考えています。
鉄人28号を考えてください。鉄人28号はリモコン操作で動くロボットです。リモコンが誰の手に渡るかで状況は大きく変わるのですが、僕は漫画を読んでいて、ドキドキしたものです。早くリモコンを奪い返せ!と。
鉄人28号はただのロボットです。意思はありません。しかし、「使う側」によって善にも悪にもなります。
使う側の問題
なのです。僕は金も同じだと断言したいですね。金だって結局は使う側の問題なのです。
どう使うか?
なのです。ついでに言うなら、権力だってそうですよ。使う側の問題でしかありません。どう使うか?なのです。
さて、ここまで書くと、
清廉潔白な人が金や権力を使うのか、それとも悪人が使うのか?
なんてクエスチョンでも出てきそうですが、僕はそれも間違っているのではないかと思います。そうではないのです。誰が使おうとも金は金。権力は権力。そもそも生きていればほとんどの人が何かしらの権力を持ち、お金だって使うのです。
けど、みんなが使うにもかかわらず、
多くの人は使い方を知らないのではないか
というのが僕の疑問であり意見です。セックスもそうですが、どれもこれも見様見真似でなんとなく覚えるという感じですよね。
金の使い方も権力の使い方もセックスの仕方も全部見様見真似。
それが「争い事、揉め事」の最大の原因ではないか?
僕は時代の如何にかかわらず、帝王学が大事だと思っています。力を使うためにはその使い方を学ばなければならないのではないかと思うのです。
例えば、金の稼ぎ方を知るためにヤクザから話を聞いたら「暴力で奪い取れとか人を騙してうばえ!」となるだろうし、商売人から聞いたら「ものやサービスを売って稼げ」となるだろうし、金持ちから聞いたら「で、いくら欲しいんだ?」となるでしょう。貧乏人から聞いたら「逆に教えてくれ!」あるいは「恵んでくれ!」
みんなが自分の環境下で生きるしかなく、環境が違うので金の儲け方はまちまちになります。だから五輪で金儲け反対!となる人もいれば金を稼いで何が悪い!となる人もいるでしょう。
中国に心酔していたら某アパレルメーカーのように
何人死のうが大量虐殺があろうがそんなの知ったこっちゃない!金さえ儲かれば、誰が死のうとカンケーネー
にもなりますよ。
しかし、その部分をフラットに、できるだけ多くの人がwin winになるように、具体的には学校で教えた方がいいんじゃね?と言うのが僕の意見です。
金も権力も使い方の問題。使わないから清貧だとか清廉潔白というのはただのオナニーでしかありません。そもそも為政者は金と権力を上手に使わないといけないのです。上に立つ人なのだから。税金とってるのだから。どんなに為政者が気取っても、武士が高楊枝をしようとも、金はあるのだし、使わなければどこかに流れていきます。いい方に流れていくならいいけど、悪い方に流れていったらどうします?あるいは淀んだらどうでしょう?多くの人が困るのです。
だからこそ、使い方が大事なのです。
金なんて使わないのがいいんだなんていう考え方はミスリードそのものでしかありません。オリンピックは商業主義だという人は害悪でしかないのです。何がどうあろうとも、世の中には金も権力もあるのだから。適度に使わなければならないのだから。
綺麗事に騙されてはいけないのです。
清貧というのはキチガイ思想とほぼイコールなのです。綺麗な言葉で言うなら「狂信」。そもそも
清貧思想なんてものは大抵この世を混乱させるために、それぞれの時代の末期に登場するものなのです。