うんこが混じった食事を提供する小山田圭吾

今日は珍しくもう一つ記事を書きたいと思います。

小山田圭吾氏辞職せず「本来なら辞退すべきだったかも」謝罪し職全う意向
https://news.yahoo.co.jp/articles/c8fd22a01f57f8727a5ac369cc913d8ac6dd8e15

いきなりですが、全否定から擁護まで様々な意見があることに対して僕は

強い憤り

を感じます。いじめをしている相手を擁護する意味がわかりません。

なぜ擁護するのか意味不明です。自分がいじめられたらどうでしょう?うんこを口に突っ込まれるなんて人生でそうそうないことですよ。これ以上はないほどの屈辱です。擁護する人は自分がされてもOKですか?

何でもかんでも意見は色々あっていいというのは、僕は間違っていると思います。

  

「いじめ良くない」で世論が一致したら全体主義ですか?恐ろしいですか?

  

僕から言わせて貰えば、凄まじいいじめに対して擁護する意見がある方が恐ろしいです。ダメなものはだめ。これが是々非々。なのに、色々な意見があっていいというのは、単細胞で条件反射でしかものを考えない、感情でしかものを判断できない典型例です。

いじめは良くない。

当たり前のことです。強い人間、あるいは大勢の人間がよってたかって一人の人間を「大した非もない」のにいたぶってもOKというのは、少なくとも現代においては人権無視なのであって、罰せられるべき。

そこに擁護など1mmもあってはならないのではないですか?

何でもかんでも色々な意見があっていいというのは思考停止。最も頭の悪い人のすることです。

  

反省したらからいいというのも、この場合は間違っています。騒がれるまでに「反省する機会」「謝罪する機会」はたくさんあったからです。騒がれてバッシングされたから

いやいや謝った

としか思えないのです。騒がれていなかったら、しれっとしていたことでしょう。武勇伝としてことあるごとに自慢してたかもしれません。在日朝鮮人のキチガイが仙台で暴れたことを本にして自慢してたことを思い出します。実に醜いですね。

さらに、反省したとして、じゃあどう反省したのかが全くわかりません。謝りたい!ではなく、自ら謝りに行くべきですよね。断られても反省の気持ちを伝えることが反省ではないでしょうか?仮に居場所がわからないなら、そこそこのお金があるんだろうから、探偵を雇えばいいじゃないですか。

 

大人の事情なのはわかります。今更このキチガイをクビにしても、代わりがいない。時間があまりにも限られているからやむを得ない。誰だってそんなのはわかります。子供の遊びじゃないので、準備期間に1週間あれば十分だよね!ってわけにはいかないのです。

けど、もはやバックボーンを知ってしまった今、このキチガイの音楽を心地よく聞けるのかと言ったらそりゃあ頭おかしくない限りはNOですよ。

  

オリンピックは商業主義で結構で全然問題ないと僕は思ってます。いくらでも金を稼げばいいじゃない。

けど、金を出すからには

心地よくなりたい

のです。うっとりしたい。いい気分になりたい。日の丸を見て君が代を聞いて、日本すげーって思いたい。

なのに、うんこ食わせたり暴力振るったり、それを武勇伝まがいに語ったりするキチガイが重要な部分に関わっているとしたらどうでしょう?

最高に美味い食事にうんこが混ざってるのと全く同じです。

2度と食うかこのボケ!!

じゃないですか?

  

心底がっかりしました。応援しにくいなんてもんじゃありません。気分はまさに「うんこが混じった食事を出された気分」です。