ファティマの大予言は本当か?
ムー民であれば絶対に知っているであろう必須知識でもあるファティマの大予言。
詳細はこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファティマの聖母
もちろん僕もムー民であって、だからムーは貪るように読んでいて、当然ファティマの大予言も読んだのでして、そして感想はというと、ただただ「すげぇ…」。
単純な子供だった僕は、キリスト教的な神に興味があり(はっきり書いておきますが、キリスト教的神に惹かれた最大の理由はビジュアルが良かったから。仏教の神はポチャッとしてかっこ悪かった。本気でそう思ってました。こんなレベルの子供でした)、なのでキリスト教関係の本をたくさん読んだのですが、そのきっかけは全部ムー。
ムーは本当に僕の読書遍歴をある意味決定づけた雑誌でしたね。ムーを読まなかったら、ユングを知ることもなかっただろうし。
さて、ファティマの大予言もそうなのですが、僕には大変気になることがあるのです。
なぜ聖母マリアなのか?
なぜイエスではないのか?
いや、イエスでなくてもペテロでもパウロでもいいのです。
なぜ聖母マリアなのか?
別に女性云々言いたいわけではなくて、マリアってぶっちゃけ
イエスを産んだだけ
いやもちろんイエスとは母と子の関係で、イエスと生んで、イエスの母としてイエスを育てたのだから、まあ確かにそれなりの存在ではありますが、イエスの思想(ユダヤ教?戒律だなんだとごちゃごちゃ言ってんじゃねーぞ!神を信じることそのものが大事なんだよバーカ!)を決定付けたわけじゃないはずなのです。
ファティマの大予言に戻りましょう。ポルトガルのファティマに突然出現した聖母マリアが伝えた内容は、僕から言わせてもらえるなら、それは「カトリックの教え」。
つまりはイエスの教えではなく、イエスの教えを「解釈し思想化し宗教化したもの」なのです。キリスト教の教えというのは異端も含めたらそれはもうたくさんあって、必ずしも一致した思想を持つ宗教ではない。これは間違いないところです。
僕の考えですが、イエスでもなくペテロでもパウロでもないマリアが出現する場合、語る思想はその時代、つまりイエスやペテロやパウロやマリアが生きていた時代のものであるはずなのです。それ以後に広まったカトリックの教えを伝えるのはどう考えてもおかしい。
例えばよく言われる「悔い改めよ」というフレーズですが、これはつまりはこれのこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゆるしの秘跡
カトリック教会の秘跡(サクラメント)の一つで、洗礼以後に犯した罪のゆるしを与える秘跡
それをマリアが伝えるって、どう考えても矛盾があるのではないかと僕は思うのです。いや確かにアタナシウス派ではマリアは神の母なのだから一見問題などないように思えますが、それはあくまでもアタナシウス派の思想なのであって、仮に「本当にマリアが出現した」のならば、そういう後から思想化されたようなことをマリアが言うはずはないのです。アタナシウス派が形となった時代にはマリアは死んでいるので、そんな思想など知る術がない。さらには、仮にマリアが神だとしたら、一定の宗教(思想)に肩入れするだろうか?とも思えます。僕には大いに疑問です。
はっきり言わせてもらえるなら、出現したのがイエスでなくてもペテロでもパウロでもなく聖母マリアである最大の理由は
単にビジュアル
だと僕は本気で思っています。つまりは見た目。日本で流行った(今も流行ってるのかな?)萌えというレベルと全く同じだと思っています。あるいは擬人化。今何かを擬人化するとなるともう馬鹿みたいに何でもかんでも女の子にするじゃないですか。ビキニで巨乳で目が大きくていつも笑ってるあれ。仮にしゃべるとなると鼻にかかったような甘ったるい言葉でヘラヘラしてるような(言いすぎましたか?)
ファティマの大予言の時代には、萌えも擬人化もなかっただろうけど、ビジュアル的にむさ苦しいおっさんが出てくるより、華があるマリアが出てきた方が「それっぽい」。だから聖母マリアなのではないかと僕は本気で思っています。確信の域に達しています。もちろん大真面目に書いています。キリスト教徒の、もっというとカトリック教徒の人には申し訳ありませんが、思うんだから仕方ありません。反論大いに受け付けます。
ちなみにカトリックが奇跡として認めたのは、これはもう極めて当然のことで、そうすることで「カトリックの権威がグッと上がる」のだから、奇跡にしないわけにはいかないですよね。
昔の僕はファティマの大予言に関してただ単に「なぜイエスではないのか?」と思うだけでしたが、あれこれ読んだ結果として、やっぱりこれはおかしいとしか思えないという結論になってしまっています。そしてファティマの大予言というのはぶっちゃけ「集団幻覚だった」という、なんだか漠然とした結論になってしまっています。
このブログでは何度も書いていますが、僕はキリスト教が大好きです。けど、全くこれっぽっちも信じてはいません。キリスト教的な神も全く信じてはいません。ヤハウェなんて存在していないと思っています。人が勝手に決めた神は結局は「人より下の存在」でしかないからです。
人の祈りを聞く神というのは、言い換えれば人の言いなりになる存在。それは神ではなく僕(しもべ)です。そんなものは神ではないのです。
神は人の都合に振り回されない。
そう考えるなら、そもそも神は言葉を使ったメッセージなど発しない。思想なんて言うはずがない。僕はそう考えています。
そういう意味では神道の神は神に近いですよね。雨が降ってたのにいきなり晴れて虹が出るなんて、まさに神という感じがします。喋らないけど、その存在を実感させる。これこそ神ではないかと。自然そのものが神。少なくとも僕はそう思っています。