北海道神宮放火事件から透けて見える幼稚な思考

北海道神宮放火事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道神宮放火事件

放火、暴力、アイヌ、革命、まさにそれっぽい単語のオンパレードで、いかにもそれっぽい事件です。

事件の背景もおそらくはwikiの通りなのでしょう。つまりはそういう輩の仕業だと。

未解決だそうですが、さもありなん。放火犯は少なくとも自分を英雄視したことでしょうね。これで革命が早まる!的な。笑

そういう輩の考える革命なんて起きませんけどね。今もそんなもの起きてないし、これからもありません。残念。笑

本来なら燃やしたんだから弁償しろってことですが、もちろん弁償する気なんかさらさらないでしょうし、下手をしたら燃やしたことすら忘れているかもしれません。あるいはこの世にはもういないか。

  

ところで、このあたりの年代のこの種の、あるいはこの手の思想を持ってるような人の話に触れると、いかに「(暴力)衝動だけで動いていたのか」がよく分かるのですが(例、安保闘争の際に、安保改定の中身を全く知らなかった連中が大暴れ)、それに賛同している輩も軒並み「頭大丈夫?」って人ばかりで、それがなんとも醜悪だなぁといつも思うのです。具体的に何が醜悪なのかというと「革命」という言葉の裏に隠れている幼稚性ですね。

特に共産主義革命というものは幼稚極まりないものなのですが、では、なぜ革命が幼稚かというと、これは断言しますが、近代において革命を叫ぶものは、実は革命がしたいのではなくて、

暴力で思いのままに支配したい

結局は全部これだからなのです。彼らの思考の流れを追うと、

自分がなんでも正しく、自分がこそが正義である。
なのに世の中はどうしても自分の思い通りにならない。
その理由は「世の中が悪い」から。
なら世の中を正せば自分の思い通りになる。
世の中を正すにはどうしたらいいのか?
弱い自分にはどうすることもできないが、けど世の中がおかしいのは確かで、そう思う自分は絶対に正しい。
正しい自分の正しい行為なのだから、暴力は許される。
世の中は間違っているのだから、世の中の自分に対する暴力は許されない。
こんな世の中は破壊しないとならない。

あとは上記のアレンジで如何様にもなるし、実際に上記の放火事件もそういう形なのではないでしょうか?もっと言うならレーニンも毛沢東もポルポトも全くもって全部それだったと僕は思っています。

どんな動機だろうとなんだろうと、とにかく自分の全てをことごとく正当化して、その上で暴力をも正当化して、思う存分やりたい放題やって、世の中に対してマウントをとって、それで子供のようにご満悦なのです。レーニンも毛沢東もポルポトも現代に生きるサヨクも、僕から言わせてもらえるなら全員が醜く腐った肉の臭いしかしません。自己正当化の理由づけとして革命だのなんだのと言ってるだけ。獣ですね。

  

しっかり観察するまでもなく子供を見ていると

思い通りにならない場合にものを壊す

ということをします。そして泣く。順序は逆なこともありますが、どちらにしても、こうなると親がいくら諭しても無駄ですよね。本人は自分の思い通りにならなくてヒステリー状態なのだから、何をどうしようとどうにもならないのです。

なぜ自分の思い通りにならない?という感情がどうしても暴力になって現れてしまう。自分の我しかないのだから、どうしようもないのです。けどそれは仕方のないことでもあります。人間は学ばなければ分別などついていませんから。

問題なのは、大人の中にもこういう輩がいるのだということ。そして「学歴とか地位とかには一切関係なく存在する」ということでしょう。

  

ちなみに、最近流行っている感じの「繊細」をアピールする方々も、根っこは上記の輩と全く同じだと僕は思っています。

繊細アピールをする輩は、

自分がなんでも正しく、自分がこそが正義である。

の部分の解釈が変形していて、

こんなにも繊細な自分をわかってくれないのはおかしい。

という思考になっているのです。一見物分かりが良さそうだけど、実は強烈な自我を持っていて、繊細であることを理由に自分を正当化しているのです。そして「弱者商売」でマウントをとる。

どちらも醜い思考ですよね。

ほら、環境がどうとか、エコがどうとか言う輩がいますよね。二酸化炭素がうんたらとか。繊細アピールはそれと全く一緒なのです。一言でいうなら

まんまサヨク

なのです。