室蘭女子高生失踪事件

室蘭女子高生失踪事件についてはこちらのサイトが最も参考になると思います。

室蘭女子高生失踪事件
https://zawazawa.jp/asamichida-muroran/

事件そのものはかなり有名だと思うし、僕が何か特別な情報を持っているわけでもないし、なので上記サイトの情報に何かを付け加えたいという意図もないのでして、ではなぜこの事件を取り上げるのかというと、

おそらくはすでに事実は何かの形で現れているのではないか

と思うからです。

あくまでもこれは僕の勝手な認識なのですが、

・ミステリーの本質は「わからない」ことにある
・わからないというのは「理解できない」「解釈できない」という意味も含む

難事件だと思われていたのに、解決してみたら、実は意外と単純だったということは少なくないと僕は思っています。例えば三億円事件ですが、具体的にはほぼ間違いなくwikipediaの記事内に「正しい解釈」があると僕は思っていますが、実際には関係者がこの世にはいないことと、法の解釈の問題で、証拠がないと罪に問えないという「制度」が横たわってるために

例えそれが事実であっても、法解釈に当てはめたら罪があるとは断言できない

という状況であるだけではないかと僕は考えているのです。

そしてそれは上記の室蘭女子高生失踪事件についても同様ではないかと。

  

事件の内容は上記リンク先に詳細に説明されています。ところで、この手のものを読むといつも思うのは、

あまりにも詳細にこだわりすぎ

ているなと。つまりは事件を追うのではなく、最初から「裁判官のつもりで」

・これは証拠になる
・これは証拠として弱い

などと判断していると思えるようなところがあるんですよね。これはほぼ全てのこの手のミステリー記事に当てはまることですが、事実を追うのではなく、最初から裁判ありきの思考になってるように思えるのです。違う視点で言うなら、捜査官、あるいは探偵気分になっているのではないかと。それが端的に表れているのがこの言葉、

奇妙な行動とか、空白の時間

僕は指摘したいのですが、それって、僕らは普通にそんな行動しませんか?事件に巻き込まれるんだもの。奇妙な行動は当然のことだと思いませんか?

その間に何が起こったか?

についても、この種のミステリー記事には実によくある謎かけですが、それを知ってどうするんだろうって僕は思います。もちろんそれが犯人に繋がる決め手になるかもという思いから、そういうのでしょうが、本当にそうでしょうか?

僕が好きな言葉にこういうのがあります。

・不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる シャーロック・ホームズ

大真面目に好きな言葉です。これはつまりは事実を何よりも重んじているということなのであって、であるなら、その間に何が起こったかではなく、起きたことだけを問うべきじゃないかと。

 

さて、僕の浅知恵ですが、失踪したのは子供で、付き合いは大人ほど広くなく、このような事件においては滅多なことで「被害者と無関係な人は絡まない」と勝手に仮定すると、事件は極めて単純にしかなり得ません。

だから僕は事件の事実は「すでに事実は何かの形で現れているのではないか」と最初に書いたのです。

ただ、裁判に耐えうる証拠がないだけで。

僕自身は上記の仮定が間違っているとは思っていません。

 

余談ですが、今ネットではアメリカ大統領の選挙が話題になっています。その選挙が違法だったか?という点で思想的立ち位置が保守とされている側での論争が行われているのです。

僕はその論争は、上記の内容と全く同じだと思うのです。

証拠がなければ(証拠だと判断されなければ)ならないとする側と、事件はあったのだから、いろいろな角度から事実を導くべきではないかとする側。

前者は形はどうあれ司法が判断するという側で、後者は司法の判断を事実だとするのはおかしいとする側。

もちろん僕は後者です。司法はあくまでも司法で、それは当然尊重しますが、司法は事実を認定する場ではなく、「法的な判断をするだけ」の場です。日本は法治国家なので、法の判断は当然のことですが、それがイコール事実だとは言えないのでは?と僕は思うのです。

この法と事実の乖離がミステリーを生み出している例の一つが、室蘭女子高生失踪事件だと僕は思うのです。