宇宙戦艦ヤマト2199は傑作に近い良作だけど、宇宙戦艦ヤマト2202は信じられないレベルで駄作極まりないわけ
タイトルでアグレッシブに攻めてみましたが、実際に本当にそう思っています。これでもまだ表現的に穏やかな方だとすら言えます。
どうして宇宙戦艦ヤマト2199は傑作に近い良作だけど、宇宙戦艦ヤマト2202は信じられないレベルで駄作極まりないのか。
もちろんこれを説明しなければなりませんが、先にはっきり書いておきます。
やれ作画レベルだ物語の組み立てだ声優陣の演技だなんだかんだと、そんなくだらない瑣末的な話は一切しません。そういうオタク的な話がしたいわけではないのです。もっと根本的なこと。というか根源的なこと。すごく大事なことが決定的に違う。宇宙戦艦ヤマト2199と宇宙戦艦ヤマト2202は全くもって真逆なのであって、そういう話を書こうとしているのです。
というわけでいきなり核心ですが、わかりやすく箇条書きにすると
宇宙戦艦ヤマト2199 → セックス
宇宙戦艦ヤマト2202 → オナニー
です。これでわかるでしょうか?え?わからない?知ったかぶりするな?勿体ぶるな?わかりました。では説明します。
セックス → 相手がいないとできない
オナニー → 一人でできる
これならわかると思います。宇宙戦艦ヤマト2199はどんな物語だったでしょうか?もちろん人類をガミラスという宇宙人から救うために、とある特殊な装置をこれまた未知の宇宙人のところに受け取りに行くという話ですよね。つまりは「人類のために」何かをするのです。相手がいるのですね。そして相手のために何かをする。人は自分のためにではなく「誰かのために頑張る」。
少なくとも、僕はそういうものに感動します。
例えば僕はすべてのアニメキャラの中で沖田十三艦長がもっとも好きですが、彼の生き様がそれを表しています。人類のために不撓不屈の精神でもって未知の航海に突き進む!昭和の男である僕にとって、これは本当に最高の生き方です。こういう生き方がしたい。できないけど憧れる!これですよこれ。
では宇宙戦艦ヤマト2202はどんな物語だったでしょうか?それは徹頭徹尾、古代進が「僕ちゃんは約束したんだもん!それを守りたいだけだもん!」とひたすら自分ガー自分ガーと自分のことで精一杯テンパるだけの話です。つまりどこまでいっても相手不在。常に自分が大事なのです。だって波動砲使わないって約束したんだもん!やーグーソーぐーシーターンダーもーーーーーーーーーん(ジタバタ)
厨二房のオナニーを延々見せられても感動どころか嫌悪感しか湧きません。沖田艦長なら「わしが責任を取る!」の一言で適切に波動砲を使ったでしょう。ただのそれだけのことに延々と
だって波動砲使わないって約束したんだもん!やーグーソーぐーシーターンダーもーーーーーーーーーん(ジタバタ)
病気でしょ?
半沢直樹が大人気だそうですね。そしてその人気の秘密は色々言われていますが、僕から言わせて貰えるなら、やっぱり半沢直樹は物語がちゃんと(濃厚に)セックスしてるのです。ちゃんとイかせてくれるし。
つまらないドラマは結局、製作陣か物語か演者か、そのいずれかかあるいは全部かは知りませんが、「ほらほら僕ちゃんすごいだろう〜?」というオナニーをして、それを見せびらかしているだけ。イケメンとタイアップとかね。話題先行ってありますよね?あれがまさにオナニー。
そんなもの、見てるこっちはちっともスカッとしないのです。
相手のために何かをする
この要素がない物語なんてどれもこれもつまらないオナニーでしかありません。宇宙戦艦ヤマト2202で延々古代進のオナニーを見せられて、僕は心底うんざりしてしまいました。さらば宇宙戦艦ヤマトの重大な要素である「地球のために、愛する人たちのために自分を犠牲にする」というカタルシスを古臭いと思ったのか陳腐だと思ったのか、あるいは馬鹿丸出しだと思ったのかはわかりませんが、核となる要素をきれいさっぱりとり除いた物語はセックスできない構造になってしまっているので、愛の戦士にはなれないのです。当然のこと。そしてそんな独りよがりの私小説紛いの物語の構造からは古代進はどうしたって
オナニー戦士
にしかなれないのです。というわけで、宇宙戦艦ヤマト2202愛の戦士たちではなく
宇宙戦艦ヤマト2202オナニー戦士
に直せば、まだ物語としての整合性は出るかなぁと。偉そうに書いてみました。