写真を撮ってて、密かに期待していること
写真は好きだし、とはいえバリバリに凝ってるわけではないのですが、そこそこに色々なものをパシャパシャ撮ってます。
友達がいない僕なので、人が写ってる写真があまりないのが残念ですが、まあそれは仕方のないこと。けど、その分風景写真とかあとはちょっとした記録としての写真はそれなりに撮っていて、それらはかなりの数になってます。すべてをMacのPhotosで管理しているのですが、共有できるものはGoogle Photoに移したりもしています。ラベリングは必須で、これがとても便利。
ラベリングで本当に細かく整理できるのがいいですね。写真はパソコン、というかMacで管理がベスト!
ところで、どんな感じで僕が写真を整理しているのかというと、例えば、食事の写真。
何を食べたのかをいちいち記録として写真にとって「毎日の食事」としてラベリングしているのですが、たまに振り返ってみると、これが実に面白いのです。本当に内容が変わってない!のです。知らない人が見たら確実にびっくりされると思います。
なんで毎日同じ写真撮ってるの?
と。もう本当に毎日同じなのです。微妙に食品を置く位置がずれてるだけというレベルでして、内容はほぼ変わってないのです。普通の人なら2日続けて同じものを食べたら飽きる!とかいうのでしょうが、僕はそれを数年レベルで続けているのです。
いかに食に対する欲望が淡白なのかと、我ながら驚かされますね。
というのが、このラベリングでよーくわかる。笑。エロ写真じゃないのに、人には見せられないというのがなんとも複雑ですが。笑
ところで、僕は実は写真にとあることを期待しているのですが、まだ1度しか経験していません。しかもそれは中学3年の時の1度きりで、それっきりなのです。こんなに写真を撮っているのに、どうして撮れないんだろうと思うのです。正確に自分の気持ちを書くなら
すごく悔しい
のです。なぜ撮れないのかと。
そんなにまで悔しがる、撮りたくてたまらないその写真とは一体なんなのかというと、これはもう感のいい方ならわかったことでしょう。そう
心霊写真
が撮りたいのです。
というか、枚数気にしないでバシバシ撮影できるのに、なぜ心霊写真が1枚もないのかと、本当に僕は悔しいのです。それなりの心霊スポットでも写真を撮ったりしてるのに。僕には1mmも霊感がないのですが、なんかそれ自体が損した気分なんですよ。見える人には見えるのに、僕には見えないことが、実に損してる気分なのです。
僕も見たい!
本当にそう思うのですよ。そしてこれだけバシャバシャ写真撮ってるんだから、1枚くらいネタ用でいいから心霊写真あってもいいだろうって思うのです。
…とか書いて、実際に本当に心霊写真が撮れてしまったら、やっぱり怖いのですが。笑
中学3年の冬。僕は友達と天体写真を撮るのが楽しみで、真冬の学校の校庭に二人で行って、反射望遠鏡にカメラをつけて、色々な星や星雲なんかに向けて写真を撮ってたのです。月が出てる時はシーイングが悪いので、月は好きではなかったのですが、そんな時は逆に月を撮影したりして楽しんでたのです。
ある日、そうやって撮った写真の現像をした友達に「あの時の現像どうだった?」と聞いたら、すごく深刻そうな顔をしているんですよ。そしてなぜかその話に触れたがらないのです。けど、当時は写真の現像はお金がかかる話で、二人でお金を折半していたので、やっぱり聞かずにはいられなくて、しつこく聞いてたら、
「誰にも言うなよ」
と言って「実は現像はできてる。けど、写真にはできない」と言って、ネガを僕に見せてくれたのです。それは月の写真。僕は唖然としました。友達は「それ何に見える?」と聞いてきたので、僕は思ったままのことを言いました。
「だよな」
「………」
あとは二人で無言。とりあえずお互いの監視の元にネガを焼いてなかったことにしました。ひょっとしたら気のせいかもしれないので、あえてここには書きませんが、それがたった1度の心霊写真(だと思います)の体験です。
やっぱり怖いですよ。けど、それでも、やっぱり心霊写真をまた撮りたい。それも本音です。
なぜなら、中学3年生の頃の上記の体験があるので。世に中にはそういう写真はある。それをもう一度確かめたい。そんな気持ちだったりもするのです。
不謹慎かな?