城丸君事件

ことの起りは1984年(昭和59年)1月10日、札幌市豊平区に住む9歳の男の子、城丸君が行方不明になることか始まる。
当時29歳の女性のアパートの階段を上がっていく目撃情報からこの女性を事情聴取するも城丸君の情報は得られず。
事件が動くのは、その2年後の1986年12月30日。上記女性の嫁ぎ先の新十津川町の自宅から出火し、当時の彼女の夫が死亡する事件が起こる。そのさいに焼け跡から焼けた人間の人骨が発見され、その後1998年にその骨が城丸君のものであると判明。城丸君事件の時効直前に女性は逮捕される。
しかし、女性は完全黙秘を続けたため、状況証拠が揃っていたにもかかわらず、裁判では地裁高裁いずれも無罪となり、最高裁への上告を断念したため、女性の無罪は確定。なお、この女性は刑事補償請求を起こし、多額の補償金の支払いを受けている。

  

札幌で起きた有名な事件だそうで、ああ、あれね、と思われた方もいるのではないかと思いますが、やはり注目点はこの「黙秘」の取り扱い。裁判ではいずれも「権利だから行使するのは当たり前」とされました。では、黙秘したら何がどうなのかというと、

殺人罪として扱うためには「殺意」の認定がなければならないのでして、殺意がないなら過失致死、殺すつもりはないけど殴ったら死んでしまったなんてことになったら傷害致死、車で人を引き殺してしまったら業務上過失致死というような

法律(上の取り決め)

があって、その法律を巡っての"やりとり"、あるいは"手続き"の問題が大きかったのですね。検察はこの女性を「殺人罪」で起訴した。しかしこの事件では女性の完全黙秘のために「どう考えていたのか」がわからない。だから殺意があったかどうかなんて「わからない」。だから「殺人罪としての構成要件み満たしていないので無罪」となるのです。平たくいうと、

「彼女が殺意を持った上で城丸君を殺したどうかはわからない。わからないものをわかったとは言えない。だから(殺人罪としては)無罪」

なんですね(ちなみに、仮に過失致死、傷害致死として訴えたとしても時効が成立しており罰することができない)。

正直「はぁ?(なにそれ?)」という感じじゃないですか?はっきり言うなら

単なる言葉遊び

としか思えない。法に照らし合わせてしっかりと法解釈を行ったという名のもとに、その実「言葉の揚げ足を取られないように丁寧に判断しました!」というようにしか捉えることができない。少なくとも無罪っておかしいでしょ?と、こう思う方が多いのではないでしょうか?

まれに「この僕ちゃんはちゃんと法を理解してるから、この判断は正しい!(キリッ」とされる方もいるかもしれませんが、多くの人はこういう判断にはやりきれなさを感じるのではないかと思います。

そしてそういう思いがのちの「裁判員制度」に至ったのだと僕は思っています。

  

ところで、裁判員制度の大問題は「せっかく熟慮を重ねて出した判断が、最もたやすく覆されてしまうこと」にあります。

これは僕は実に大問題だと思っています。「司法に携わる輩」、あえてこう言いますが、この輩どもは、明らかに裁判員である国民を「馬鹿にしている」のです。お前らは法を知らないのだと。

法に照らし合わせるとこうなるんだよ、と言わんが如くに、というかあからさまにそういう態度で一審の裁判員の判断を二審で覆す。これは本当に国民を馬鹿にしていると僕は思います。

そもそも法は「完璧ではない」。

上記の城丸君事件においてもそれは明らかです。だからこそ裁判員制度もできたわけで、これを「ガス抜き」などという言い方自体が国民を馬鹿にしていると言っていいでしょう。中世の魔女狩りのごとく、捕まったら最後であとは死刑以外にないというような世界ならまだしも、判断する国民は中世に生きてはおらず、法に精通しているわけではないけれど、その骨子は学んでいます。

その判断を「お前らなんて、所詮なにも知らない」的な態度で覆すのは司法のおごり以外の何モノでもありません。

そもそも法は「国民のためにある」ものです。司法に携わる方々はそれを本当にわかっているのかと問いたいですね。法に国民が平伏すのではなく、国民のために法はある。その法に瑕疵があるなら、それを補うことが大事なのではないでしょうか?

よく裁判では

「2度とこのようなことがないのように(判断した云々)」

などと謎の上から目線が語られることが多いですよね。しかしながら、「実際にそうなってますか?ずいぶんと軽い言葉ですね」と思わずにはいられません。綺麗事を話す俺かっけー(ドヤ顔)ですね。それを聞いた側は納得するでしょうか?

多くの場合で「全く納得なんてできない」のが実態ではないのでしょうか?そもそも身内を殺されて納得というケースは極めて稀でしょうから、そんなのにいちいち惑わされるのはおかしいという向きもあることでしょう。

しかし、やたらと権利だ人権だとおっしゃる司法においては、なぜそういう被害者の気持ちを「法の下に無視するのか」が僕には全くわかりません。

だって、相手はもう死んでるし、まだ生きてる加害者にこそ権利を!

とあからさまに言ってる今の司法制度には、やはり疑問しか感じません。

その疑問が分かりやすい形で出ているのが、この城丸君事件だと思います。