シャイニングを体験談としてみるか物語としてみるか

映画シャイニング(1980年)は原作者のスティーブン・キングがどうしてもその出来に納得できずについに自分で映画を作り直してしまったという、そういう意味での曰く付きの作品ですが、僕は言いたいです。

いや、これは大傑作だ!

と。シャイニングについては原作本を読みましたが、原作者渾身のテレビ版は見ていません。なので片手落ちは承知の上で書くのですが、僕は原作よりも映画の方がしっくりきました。

なぜなら「ありがちなサイキック現象」がかなり抑えられているからです。極めてシンプルにごく普通に「それはダニーが見ただけの幻視」とか「ジャックが見ただけの幻覚」に見える。だからこそ恐ろしいのです。様々な、しかも大袈裟な特殊効果を使わない、むしろ実際に「そういうものを見てしまいそう」「見てしまうかもしれない」というリアリティのある映像がすごいのです。

何気なく振り向いたら人がいるときの驚きたるや、かなりのものがありますが、まさにそれ。

ホテルが持つ「意志」の表現も、映画版の方が抑制されていて、僕は好きです。例えば、学校って人がいない休日に行くと、なんか怖いものを感じますが、あの怖さですね。

主人公のジャックは、元々このホテルの持つ意志に取り込まれているという設定も僕にはしっくりきます。人間ってそうそう狂うものではないと思うのですが、あらかじめ「狂う要素があるなら」そりゃあ狂います。アル中のせいではなく、元々そうだった。だから狂うのです。

原作者のスティーブン・キングは(これはあくまでも僕の考えですが)、シャイニングを書いた時に、主人公のジャックの造形に自分の体験をかなり入れていて、つまりはジャックに対する思い入れがものすごく強くて、だからこそ執拗に映画を非難したのではないかなと思います。

しかし、その分だけ僕には小説版は入り込めなかったのです。何やら一種の体験談って感じで。

映画版は「物語」として作ってしまったために、スティーブン・キングの思い入れをバッサリと削ぎ落として、あくまでもホラー映画として作ってしまった。だからこそスティーブン・キングは自分を否定されたと思ったのではないかな。

まとめるなら、体験談として捉えるか、物語として捉えるかの違い。

僕は物語として捉えたので、だから映画版です!