2011年3月11日金曜日14時46分18秒
2011年3月11日金曜日14時46分18秒に僕が何をしていたのかと考えたのですが、はっきりとは思い出せません。
札幌に来て2年。まだ仕事が安定していない状態で、次の仕事に移る前なので、アパートの部屋にいたと思います。部屋で何をしていたんだろう?それは覚えてません。
その時間に札幌が揺れたかどうかも覚えていません。揺れたのかな。
テレビはなく、しかしパソコンはあったので、地震の一報はネットで知りました。ということはパソコンで何かしてたのかもしれません。一報を知るや否やすぐに青森の実家に電話。電話は確かその時点ではつながらなかったような気がします。
はっきりと覚えているのは、その後ヨドバシカメラに行ったことで、なぜなら自分の家にテレビがなく、そして単純にテレビ(NHK)が見たいと思ったからです。
そして驚きました。
なんかすごい地震だな、と。
その後、それは「なんかすごい地震だな」から、「これはとんでもない事態じゃないか!」となり「!!!!!」ただただ驚きの状況になるにつれ、じわぁ〜っと怖くなったことは覚えています。電話はその後(数日後かな)実家と繋がって「すごい揺れたけどうちは大丈夫」とか「八戸はひどいことになってるらしい」なんて話を聞きました。
東北地方太平洋側一帯は、僕はすごく好きなところで、国道45号線や国道6号線はよく車で走ったものです。特に岩手の三陸地方には知り合いや友達もそれなりに住んでいました。今でも立ち入り禁止の福島原発の駐車場に車を止めて車中泊したこともあります。夜になると鮮やかな照明が輝いて、わりと綺麗なところだったんですよ。ここ(駐車場)に止めていいのかな?ま、いっか、なんて知らんぷりして車止めて。
宮古や釜石、気仙沼とか、あのあたりの風景は、田舎の街と自然が交互に出てきて、天気のいい日に車で走るととても気分が良かったし、仙台が好きだった僕は、国道4号線か国道45号線を走って仙台まで行くのが、当時の楽しみでもあったのです。
そんな場所が「壊滅的被害」を受けたというニュースには心底愕然としました。後から津波の映像などがネットで次々に出てくるのを見て、初めて映像で気分が悪くなったことは今でもはっきりと覚えています。
僕の知り合いも友達もこの地震、というより津波で亡くなったのですが、これにも愕然としました。
考えてみれば、本当にただただ愕然とするばかりでした。
当然ボランティアに行くことを考えたのですが、恥ずかしながら当時は金銭的な余裕がなくて断念。その後すぐに就職することになるのですが、そのタイミングの悪さというかなんというか、ものすごくもどかしかったです。自分の好きなところがとんでもないことになってるということで居てもたってもいられない感じで、このもやもや感は実はこの後ずーっと心に残り続けるのですが、見たくない情報だけど、見てしまい、そして愕然として、その後に何もできない自分にモヤッとするの繰り返しでした。
どこそこがひどい状況
あっちもとんでもない状況
何人行方不明なのかが不明
心は今でも東北人。決して道産子にはなれないからこそ、だからこそこうしてブログとか書いて札幌はこういうところなのか、北海道は面白いなと思っているのです。いわば今だに「北海道にやってきた客」感覚。あくまでも僕のバックボーンは青森・東北地方なんです。それは今も当時も変わらない。だからこそ、情報にかじりついていました。このころだけ「各新聞を買ってた」と思います。とにかく当時の僕はできるだけ多くの情報が欲しかったんでしょうね。
僕の友達に自衛隊員がいるのですが、当時はあえて連絡しませんでした。確実に出動しているというのがわかっていたからです。頑張ってくれよ!と思ってました。こういう時は自衛隊に頼るしかありません。そして実は今に至るも当時の話は聞いてはいません。とても大変な目に遭ったのではないかと思うからです。僕はジャーナリストではないのです。そういう話をこちらから根掘り葉掘り聞くのはやはり失礼です。
未曾有の大震災となってしまった東日本大震災。
福島原発とかトモダチ作戦とか東京のパニックとか海に流されたものが遠くアメリカまで流されていたとか自粛自粛で冷え込みまくった経済とか、今でも印象深いものはたくさんありますが、あれからもう9年も経ったんですね。いや、まだ9年しか経ってないというべきか。
Fukushima 50も観に行く予定だし、せめて今日は、過ぎ去ってしまった9年前のことを思い出してみようかと思ってこうして書いてみました。