神隠しという名の行方不明
今年の9月21日に起きた事件。
まだまだ捜査は続いていることですし、僕はこの事件に関しては一切言及しません。ただ、少しでも早く見つかることを心より願うばかりです。
ところで、現代ではこの種の事件に対しては「行方不明」という単語を使うのですが、情報通信が発達していかなった時代では
「神隠し」
などという言葉が使われていたことと思います。現代のようにいろいろなところに監視カメラがあるわけでもなく、夜になれば街灯がなくて真っ暗なところもたくさんあった時代。強烈な悪意を持って用意周到に人をさらったとしたら、まずは誰にも気づかれないでしょうし、沢に落ちた、崖から落ちた、川に流された、波にさらわれた、などなど自然だって決して優しくはなかったでしょう。
そして「いきなり消える」ということは、何もかもが全く不明で手掛かりゼロということ。これが1番の難点ですよね。手の打ちようがないからです。誰がそういうことをしたのか、あるいは誰も何もしてはいないのか。
こんなもやもや感を昔の人はどう表現したのか?これこそがまさに
「こんなことをするのは神様しかいない」
だったんでしょう。訳のわからないことは全部「神様のせい」なんだと。地震や津波などで、例えそれが「やむを得ない状況状態で誰も責めることができなかったとしても」それだともやもや感がどうしても残る。だからあえて国を訴えるのと「少し似ている」気がしないでもありません。いやそれどころか、訴えることでもやもや感がなくなるのなら、それはそれでいいことじゃないかと思ってるくらいです。もやもや感は実はかなり辛い。だから何かしら理由を探したり、あるいは誰かのせいにしたりしてもやもや感を晴らすのです。それが「神隠し」。
神様がさらっていったのか。では仕方がない。無事でいてくれよ。と。
現代ではそんな神様はいないのであって、「なんらかの原因が必ずある」という因果応報論の元に物事は考えられているのでして、だから神隠しではなく行方不明。自然、あるいは人がそこには必ず介在しているのだという確信まずは出発点なのです。
さて、そんな神隠しといえば、
泉南郡熊取町小4女児誘拐事件
など日本にもたくさんあります。上記の事件は目撃者もいるし、足取りもある程度は把握できているのに、ほんの少しの空白時に行方不明となっています。上記以外の事件名をあれこれ上げるのは差し控えますが、どれもこれもが「ちょっとした空白時」に行方不明となっている点が同じ。ちょっと目を離した隙にというやつです。家族としては悔やんでも悔やみ切れないでしょうね。心中察するにあまりあります。
そういえば、最近、拉致監禁された女性や少女が発見されたり保護されたりという事件も頻発しているような気がするのは気のせいなのかな。上記の事件が拉致監禁なのかはもちろんわかりませんが、拐われているのは女性が多いという印象を受ける僕としては、「羊たちの沈黙」ではありませんが、何をされるかわかったもんじゃないので、本当に気をつけて欲しいと思います。
ただの雑文になってしまった。苦笑